死のロングウォーク

高見広春の「バトルロワイアル」の下敷きとなった作品であるとウィキペディアに書かれていたので読んでみた。
なんとまあ私のスティーブンキング初体験である。
バトルロワイアルは映画で有名になった作品だが、小説が読める人にとっては映画より漫画より原作の小説の方が面白いのでお勧めする。
バトル・ロワイアル

バトル・ロワイアル

小説バトルロワイアルのエンターテイメントとしての出来は出色で、読んだ当時は「これで賞を逃すのか!?」と仰天した。
バトロワのネタになった作品だということで今回、キングの「死のロングウォーク」を読んでみたが、結論を先にいうと内容は似ていない。
バトロワは充分にオリジナリティがあることが確認できた。
しかし、ロングウォークを読んでみるとバトロワにはやはりエンタメの必須要素である「お為ごかし」が大量に含まれていたことを認めざるを得なかった。
ロングウォークの方にお為ごかしが全くなかったわけではなく、オーウェルほどの厳しさがないことは事実だが、日本の小説には例があまり見られない冷徹さで首尾一貫している。
この小説はキングの最初の長編なのだそうで、恐ろしいことに大学生のうちに書かれたものだそうである。
優れたクリエイターにはままあることだが、一般社会では全くお目にかかれない早熟な洞察でもって作品が作られている。私などの日常では会いたくても会えないような深い心を持った若者が実際には一般社会のどこかに黙って存在していることを、つい先ほど書いたこととは矛盾するが、これは示している。
死のロングウォークの内容は普通に考えれば、どう考えても2、30年は社会に出ていなければ実感できないようなことがフィクションの形ではあるにせよ描かれている。優れた作家は年若いうちにそれをどのように知って理解するのだろうか。
”ロングウォーク”とは14歳から16歳までの若者を100人集め、ひたすら南へと歩かせる競技である。優勝すれば望むことを国家が何でも叶えてくれる。
現実のマラソン競歩などと違うのは、最後の一人になるまで競技を続ける点であり、脱落者は射殺される。
バトロワと違うのは、ロングウォークに参加するものは志願しているという点だ。
99%が挫折して国家による死を強要される競技に自ら参加するのである。
設定の根本がバトロワとは異なっている。
バトルロワイアルは参加が国家による強制であり、それを生き延びるというのが作品のプロットであるから基本的なテーマは反体制である。バトロワのストーリーが暗喩しているのは現実の日本の「人民支配」の「からくり」を批判することである。受験なり仕事なりで国家により巧妙に統制され利用され圧殺されるという「現実」を批判している。
今、何故括弧つきで書いたか。
私はバトルロワイアルというお話を面白いと思いはするが、決して寒々しくなるような説得力を感じなかった。
バトロワが面白いのはむしろ、現実の日本から遊離した、まさにフィクションならではの非現実的なストーリー、アクションといった面に爽快感を覚えたのであって、私たちの生きる現実をうまく暗喩できているとは思えなかった。
今の日本の受験や仕事の状況は酷いものがあるのは確かであり、先進国としては恥ずかしいほどの自殺者続出の「異常」社会ではあるが、受験や仕事を上手く回避してよろしくやっていくことができないかというと、結構できてしまう。
「日本人はまじめすぎる」と言われることは多いが、私が実際に接するのは言われるほどやわな人々ではなく、抜け目無く狡猾にしのいでいるタイプが多い。
だからバトロワなど反体制的社会観の作家が言うほど一般市民が一方的犠牲者であると納得することができない。私が体験する現実とかけ離れている。
普遍性を感じないということだ。
その点、「死のロングウォーク」ではほとんど自滅と言ってもよい「競技」に参加者はすすんで参加する。
参加するのは得体の知れない野心にとりつかれる年頃のティーンエイジャーである。ここがまず哀れだ。
ロングウォークが行われるのは何ら特殊性も隔離もない日常のアメリカ社会である。美しい森を行き、田舎の住宅街を抜け、沿道には応援する人々、マスメディアのフラッシュライトなどが存在する。
見物の人々は家族と芝生で食事をしたり、恋人とキスをしたり、子供と犬を連れて行楽していたりする。安全で穏やかでどうということのない生活をこれまでと同じように過ごしている。
そのような日常をロングウォーク参加者はひたすら歩き、怪我・病気・気象によるアクシデントなど、どんな障害が起ころうと手助けされることは一切なく、脱落すれば射殺されていくのである。
これはフィクションであってフィクションでないと私は思う。
私たちが生きる現実はまさにこのようなものではないか?
我々の生きる現実にはうっかり足を踏み入れると取り返しのつかない破滅へのルートがある。
村上春樹は「絶対に這い上がれない穴が、どこにあるかわからない土地」と暗喩したし、オリバーストーンは同じ事情を「Uターン」の中でユーモアを交えながらも、視聴者が経験したことのある絶望感を思い起こさせる形で描いた。(視聴者は生きているので不完全な絶望だが)
私たちが間違ってどうしようもない行き止まりに直面して、進むことも戻ることもできずに恐怖に苛まれるような状況になったとき、社会のそれ以外の部分は止まってくれるだろうか?
思いやりや配慮でもって、「はい、方向を変えてあげるからリスタートしなさいよ」と言ってくれるだろうか?
悲惨な状況にある自分を見た他人が、手を差し伸べてくれたり優しい言葉をかけてくれるだろうか?死ぬかもしれない苦痛と運命を興味本位で覗いて楽しんだり嘲ったりする代わりに。
他人との関わりが肯定的で親密(有り得るのか?)である人は「死のロングウォーク」を読んでも共感も理解もできないだろう。
しかし私はこの作品に登場するような特殊な極限状況など全く経験したことが無いにも拘らず、「これは真実だ」と思わざるを得なかった。
ティーブンキングは非日常性と日常性をパコッと嵌め合わせて、違和感なく組み上げてしまった。そしてその仕組みを使って多くの読者が経験している「真実」を暗喩を通じて心中に再現させてしまったのである。
このような作品を大学生のうちに書けるのは驚きであるが、このような作品を生み出し、また長年にわたって読んできたアメリカ社会の懐は深いと思う。