ラブクラフト作品の主題
H. P. Lovecraft - Wikipedia
ラブクラフトの小説にはいくつかの主題が繰り返し登場する。
禁じられた知識
「クトゥルフの呼び声」(1926年)でラブクラフトは次のように書いている。「この世で最も慈悲深いのは、人間が自らの心の内容物を互いに関連付ける能力を欠いていることだと私は思う。いつの日か、分離されていた知識がつなぎあわされたら、現実がもつ非常に恐ろしい様相や、我々のぞっとするような考え方の様相が明らかになるため、人間は気が狂ってしまうか、知識がひらかれた時代から新たな暗黒時代の平安と安寧に逃げ込むかするだろう」
彼の作品の多くは、クトゥルフ神話の真実を知るには人間の心は弱すぎて、心が壊れてしまわずにはいられない、という認識で書かれている。ネクロノミコンが読んだものを狂わせる能力を持っているということは、ラブクラフトのファンには良く知られたことだが、そのような知識にさらされたら常に似たようなことが起こるのである。例えばクトゥルフ神話の神々やおぞましき存在に実際に遭遇したものは、それらの存在が比較的無害なもののようであっても、狂ってしまうことが多いのである。
そのような知識を利用しようとする登場人物はたいてい逃れようもなく破滅する。あるときには彼らの行いが邪悪な存在をひきつけ、あるときにはフランケンシュタインの物語と同じように、自ら作り出した怪物に殺されるのである。
人間でないものが人間にもたらす影響
ラブクラフトのクトゥルフ神話に出てくる神々やおぞましい存在には、しばしば人間の(あるいは人間のような)しもべがいる。例えば、クトゥルフはグリーランドのエスキモー社会に存在するカルト集団とルイジアナのブードゥー教団、そして世界のほかの地域にいるカルト集団から崇拝されている。
これらの崇拝者たちはラブクラフトに代わって物語の語り手の役割を演じる。クトゥルフ神話の神々は敵対する人間にはとても倒せないし、とてつもなく怖ろしい存在なのでその存在を直接的に知ると発狂してしまう。このような神々を語る際に、物語の早すぎる結末を迎えずに解説をし、緊張感を作り出す方法をラブクラフトは必要としたのである。神々に人間のしもべがいるという手法をとると、「神々」に対するある程度の情報を明らかにできるし、しもべのような人間相手であれば、主人公たちが一時的な勝利を収めることもできるのである。
「レッド・フックの恐怖」や「インスマウスの影」のような、いくつかの作品で、主人公たちが人間ならざる存在と関わりをもつのは、人間ならざる存在を崇拝するものたちを通してのみなのだ。信者が崇拝する神のような存在とは、決して直接に接触することはないのである。「大いなる旧き者」が姿を現す「クトゥルフの呼び声」や「闇でささやく者」といった作品の中でさえ、それらの存在を導きいれたり危険な雰囲気を作り出すためにラブクラフトは人間のしもべを使っているのである。
祖先から引き継いだ罪責
ラブクラフトの作品に繰り返し登場する別のテーマとして、祖先が犯した罪、もっと正確には相当に残忍きわまる犯罪行為についてだが、その汚点から子孫が決して逃れられないという思想がある。子孫たちは犯罪行為そのものから、空間的にも時間的にも(そして犯罪行為への責任からも全く)遠く離れているとしても、その血筋が罪ある者の子孫であることのしるしとなって現れる。(「壁の中の鼠」「故アーサー・ジャーミンとその家族」「インスマウスの影」「チャールズ・デクスター・ワードの事件」など)
こういった成り行きに値するほど憎むべきだとラブクラフトが明らかに考えていた犯罪は、例えば人肉を食らうことである。(「家にある写真」「壁の中の鼠」)
運命から逃れることの不可能性
しばしばラブクラフトの作品では、主人公たちは自らの行動をコントロールできなかったり、物事の成り行きを変えることが不可能であることを知ったりする。登場人物の多くは、ただ単になんとか逃げさえすれば危険から逃れられるのだが、「宇宙外の色」でのように、そのような機会は決して訪れないか、何かしらの外部の力によってどういうわけか狭められるのである。自分の血からは逃れられず、逃走したとしても、死んだとしても次の子孫が同じ運命を辿るのだから、安全はもたらされない。(「玄関先にいるもの」「デクスター・ワードの事件」)
脅威にさらされる文明
文明が、野蛮で原始的な力と闘争するという発想をラブクラフトは頻繁に取り上げた。いくつかの作品では、この闘争は個人的なレベルで行われる。ラブクラフト作品の主人公たちは洗練され、高い学識をもつ者たちだが、何らかの邪悪で神秘的な力によって次第に堕落していく。
これらの作品では、「呪縛」は多くの場合先祖から受け継いだものであり、人間でないものとの交雑の故であるか(「故アーサー・ジャーミンとその家族について」(1920)「インスマウスの影」(1931))、直接に魔術的な力をうけての故なのである(「デクスター・ワードの事件」)。肉体と精神の堕落もしばしば同時に起こる。例えば「穢れた血」というこの主題は自分の家族に対するラブクラフトの関心を表しているのだろう。特に、梅毒で死んだのではないかとラブクラフトが薄々気づいていたに違いない、父の死の原因についての。
他の作品では、社会全体が野蛮さによって脅かされる。野蛮が外部から到来して文明的な種族を滅ぼすこともある(「ポラリス」)。時には周囲から孤立した集落がひとりでに衰退し、先祖がえりを起こす(「潜在する恐怖」)。しかし、もっとも多いのは、文明社会が人間でない勢力に感化されて悪意を持った下層階級によって徐々にに衰退させられるという話である。
人種観
洗練された階層と下層階級、「穢れた血」と「純粋な血」、に関する区別は、しばしば人種的な区別である。「街路」「蘇生者:ハーバート・ウェスト」「彼」「クトゥルフの呼び声」「レッド・フックの恐怖」といった作品中の語り手は、ユダヤ人(ラブクラフトの親しい友人や文通仲間の何人かはユダヤ人なのだが)やイタリア人、ポーランド人、地中海人種、アフリカ人やアジア人をひとまとめにして敵視すると見受けられる心情を吐露している。人種差別的な思想は彼の詩にも見られる。特に「黒人の発生について」や「ニュー・イングランドの滅亡」(共に1912年)である。彼は人種差別的・自民族中心主義的な信条を個人的に親しい文通仲間に述べている。彼はウクライナ系ユダヤ人を祖先に持つソニア・グリーンと結婚したが、ラブクラフトが反ユダヤ的な意見を述べるたびに彼女の出自を思い起こさせなければならなかった、と後に彼女は発言している。
人種や階級に関するラブクラフトのぶしつけな表現を読んで、現代の読者はショックを受けるかもしれないが、そのような態度や露骨さは、彼の生きた時代には全く異常なものではなかった。それどころか、このような立場はまさに主流だったのである。当時は優生法(劣等遺伝子を排除する思想の下に作られた法律)や異人種間の結婚の禁止がアメリカや、ヨーロッパのキリスト教カトリックでない地域の多くの地域で法的に通用していたし、アメリカの多くの地域では人種隔離が法的に義務付けられていた。1920年代の大衆運動はアメリカへの移民流入を徹底的に制限することに成功し、1924年の移民法においてその運動は最高潮に達した。この移民法は、ヨーロッパの東部や南部からの「劣等人種」を受け入れることがアメリカ社会を脅威にさらしている、という専門家の証言がアメリカ議会で行われたことが特色である。これら人種問題に関するラブクラフトの感情の深層は反伝統主義の現代的な皆様には理解しがたいこともある。
「ニューヨークの特徴である、様々な人種が入り混じった雑踏の中ではいつでもハワード(ラブクラフト)は憤怒で顔色が青黒くなっていたものでした。ほとんど狂人のように見えました」と離婚後にグリーン元夫人は書いている。
ラブクラフトは英国びいきを自認しており、イギリスの古い文化を文明の頂点と考え、イギリス系アメリカ人を本家イギリス人よりは劣ったものとし、その他の人間たちは、イギリス系アメリカ人よりも下にいると考えていた(例えば「アメリカにいる子孫から母なる英国へ捧ぐ」という詩を参照)。英国の歴史と文化に対するラブクラフトの愛着は彼の作品に繰り返し登場する(「知られざるカダスを求めて」でのクレイン王の英国への郷愁のように)。
しかし、彼がいつでも英国人以外の人々に敵対的だったわけではない。「冷えた大気」では階級を人種の上に位置づけた。語り手は隣人である貧しいヒスパニック(スペイン語圏からの移民)をさげすむが、豊かな貴族階級のスペイン人であるムニョス博士については「家柄が良く、教養があり、眼識のある人物」と敬意を払っている。
「狂気山脈にて」では「ショゴス」という凶暴なしもべに滅ぼされた、人間とは完全に異質な種族(旧きもの)の痕跡を探検者が発見する。探検隊のメンバーの何人かが復活した「旧きもの」に殺された後でさえ、「彼らは別の時代の、別の道理をもった者なのだ・・・もし我々が彼らの立場にいたら、彼らのやったことをやらなかったであろうか?おお、なんと知性的でしぶとい存在だろうか!信じがたく、輝かしく、植物的で、奇怪な、驚くべき星の子たち・・・・・・彼らがいかなる存在であったにせよ、彼らは「人」だった!」と、ラブクラフトは「旧きもの」への共感を語り手に語らせる。
他の作品では、悪い印象を与える情況で白人キャラクターを登場させる。キャッツキル山脈に住む「まさに南部の退廃したクズ白人である」オランダ系アメリカ人はよく非難の的にされる(「眠りの壁を越えて」(1919年))。
「寺院」では、語り手は非常に冷淡な人物で、第一次世界大戦時のUボートの船長である彼は「ドイツ人の鋼鉄の如き意志」と祖国ドイツの優越性を信じ、その故に救命ボートの上では機関銃を持って困難を切り抜けていき、後には同僚を殺して自分自身に呪いをもたらすことに気づかなくなるのである。