ラブクラフト作品概説


H. P. Lovecraft - Wikipedia

ラブクラフト作品概説

20世紀の間はたいてい、ラブクラフトの小説はアーカム・ハウスから出版された(特に「狂気山脈」「デイゴン」「ダンウィッチの怪」「博物館の恐怖」など)この出版社はもともとはラブクラフト作品を出すためにつくられたのだが、他の文学作品も数多く出版している。しかし、アーカム・ハウスの終焉とともに、現在はペンギン・クラシックス社がラブクラフト作品を3巻出版している。「クトゥルフの呼び声」「玄関先にあるもの」「魔女の館の夢」である。これらはS.T.ジョシによって編集された「標準」校訂本であり、これらの作品の大半は以前はアーカム・ハウス版で入手できた。例外は「時の影」復元本であり、現在は「魔女の館の夢」に収録されており、これはかつて、ヒポカンプス・プレスという小出版社から出ていた。2005年に権威あるライブラリー・オブ・アメリカ協会が、ピーター・ストラウブが編集した多くのラブクラフト作品を価値あるものと認め、ランダム・ハウス社の「モダン・ライブラリー」シリーズがラブクラフトの「狂気山脈」の定本を発売したばかりである(この本には「文学における超自然的恐怖」が収録されている)

ラブクラフトの詩は「原始の痕跡:ラブクラフト詩集完全版」に収集され、彼の初期作品、哲学・政治・文学にまつわる随筆、古物収集紀行の文章、その他の文章の大半が「雑文集」に収録されている。1927年に初出した、「文学における超自然的恐怖」というラブクラフトの随筆は恐怖小説の歴史的概観であり、「注解:文学における超自然的恐怖」として読むことが出来る。

書簡

ラブクラフト怪奇小説で知られているが、ラブクラフトが書いたものの大半は、怪奇小説から政治批評、歴史にいたる幅広い話題について書かれた手紙で成り立っている。1912年からラブクラフトが死去する1937年までの間に、彼が87500通の手紙を書いたとS.T.ジョシは推測している。1929年11月9日にウッドバーン・ハリスに宛てて書かれた有名な一通の手紙は、70ページにも及ぶ。

ラブクラフトは若い頃はそれほど手紙を書く方ではなかった。1931年に「若い頃はほとんど手紙を書かなかった。プレゼントをもらったお礼を書くのが非常に難儀だったので、250ページの司教教書を書くか、土星の輪の上で⒛ページの学術論文を書いたほうがマシだった」と彼は認めている。手紙への最初の関心は、従兄弟のフィリップス・ガムウェルとの文通に始まるのだが、さらに重要なのは、アマチュア作家運動へ参加したことにあり、ラブクラフトが非常に多くの手紙を書いたことの原因はここにある。

手紙を通じて多くの様々な人々と連絡をとりあったことが、彼の世界観を広げた要因であるとラブクラフトは、次のようにはっきりと述べている。「私は自分がかなり多くの観点に通じていることを知った。それは手紙のやり取りをしなければ決して起こらなかったことだ。私の理解力や共感力は広がり、社会的・政治的・経済的視点は豊かになった知識によって修正された」

今日、ラブクラフトからの手紙を出している出版社は4つある。5巻の「精選書簡集」を出しているアーカム・ハウスは最も有名である。他には「アルフレッド・ガルピンへの手紙」を出しているヒポカンプス・プレス社、「時と精神の神秘:H.P.ラブクラフトとドナルド・ワンドレイの手紙」を出しているナイト・シェイド・ブックス社、「サミュエル・ラブマンとビンセント・スターレットへの手紙」を出しているネクロノミコン・プレス社がある。

知的財産

ラブクラフトの作品の多く、特に後期の作品の著作権の状態については多くの論議がある。ラブクラフトは、若きロバート・バーロウがラブクラフトの残した文学上の財産の管理人を務めると指示しているが、これらの指示は遺書に含まれていない。それにも関わらずラブクラフトの叔母はラブクラフトの遺志を実行に移し、バーロウはラブクラフトの死に際して多くの、そして複雑な文学上の財産を託されることになった。バーロウは多量の往復書簡を含む多くの文書をジョン・ヘイ図書館に預けた。しかし、彼は正式な訓練を受けたことの無い若い文筆家で、ラブクラフトが書き残したその他のものをうまく整理して保全する可能性はほとんどなかった。バーロウより年嵩でより世間に認められている作家であるオーガスト・ダーレスはラブクラフトの文学上の財産の管理権を求めて争った。これらの争いの結果、誰がどんな著作権を持つかについての法的な混乱が生じた。

1923年以前に出版された全ての作品はアメリカの公共財産になっている。しかし、厳密に言って誰が著作権を持っているのか、持っていたのか、ということや1923年以降に出版された、「クトゥルフの呼び声」や「狂気山脈」といった有名なものを含むラブクラフト作品の大半の著作権が期限切れになっているかどうかについては幾分かの意見の相違がある。

1978年1月1日以前に作られた作品についての、1976年のアメリ著作権法の条項の下で、ラブクラフト作品の著作権が更新されたのかどうかということに疑問は集中する。ラブクラフト作品の著作権が更新されているならば、1998年のソニー・ボノ著作権条項延長法によって、出版から95年間は著作権が守られる資格がある。もしアメリカに著作権の期限をこれ以上延長する法律がなければ、ラブクラフト作品は早くても2019年まで著作権が切れないということになる。同じように、1993年のEU共通・著作権保護条項法では著者の死から70年まで著作権を延長した。

著作権保護のためのベルン会議に参加している、最小限の著作権期間しか設けていない国々では、著者の死から50年たつと著作権は消滅している。

ラブクラフト作品を保管し部分的に所有している、アーカム・ハウス社やオーガスト・ダーレス、ドナルド・ワンドレイはラブクラフト作品へ自分たちが著作権をもっているとしばしば主張する。1947年の8月9日、ダーレスは「ウィアード・テールズ」誌の不許複製権を買った。しかし、遅くとも1926年の4月から、ラブクラフトウィアード・テールズ誌に掲載した小説の二次使用権を保持している。したがって、ウィアード・テールズ誌は多くても6つのラブクラフト作品の権利しか持っていなかっただろう。さらに、もしダーレスがラブクラフト作品への著作権を確かに持っていたとしても、その著作権が更新されたという証拠は今のところ見つかっていないのである。

ラブクラフト研究で著名なS.T.ジョシは伝記「H.P.ラブクラフト:ある人生」の中で、ダーレスの主張はほとんど確実に嘘であり、非職業的出版(同人誌?)で出されたラブクラフト作品の大半は現在では十中八九は公共財産に属するだろうと結論づけている。ラブクラフト作品への著作権は1912年の遺書にある唯一の相続人によって相続されてきただろう。ラブクラフトの叔母、アニー・ガムウェルである。ガムウェル自身は1941年に死去し、著作権は後に残された血縁のエセル・フィリップス・モリッシュとエドナ・ルイスに与えられた。そしてモリッシュとルイスは、アーカム・ハウス社にラブクラフト作品を再出版する権利を与えるが、著作権は彼女たちが保持するという、「モリッシュ・ルイス贈与」と呼ばれることもある書類にサインした。28年たって著作権が更新された証拠は国会図書館での検索でも見つからなかったので、これらの作品は現在では公共財産であるというのが事実であろう。

現在アーカム・ハウスで編集者をしているピーター・ルーバーの「オーガスト・ダーレスの真実」という随筆によると、ダーレスとワンダレイがラブクラフトの遺産を入手したことを詳細に述べている、とある手紙を1998年の6月に入手した、という。これらの手紙がラブクラフト著作権に関するジョシの観点と矛盾するかどうかは明らかではない。

クトゥルフの呼び声」のテーブル・トークRPGを出版しているケイオシアム社は、例えば「クトゥルフの呼び声」という言葉を含む、いくつかのラブクラフト的語句や創作物をゲーム製品の中で使うために商標登録している。「アドバンスド・ダンジョンズ&ドラゴンズ」を元々出していた、別のRPG出版社のTSRは「神々と半神たち」という初期のサプリメントの中でにクトゥルフ神話に関する一節を設けている。のちにケイオシアムの商標登録をうけて、TSRはこの一節を再版分からは取り除いた。

ラブクラフト作品にまつわる法的な揉め事があるにも関わらず、ラブクラフト自身は作品に関して極度に寛大であり、他人に対して自分の作品からアイデアを借用することを盛んに勧め、特にクトゥルフ神話に関して借用するように奨励した。「幅広い引用」によって、ラブクラフトは自分の作品に「真実らしい雰囲気」を与えたかったのであり、他の作家に対し、「ネクロノミコン」「クトゥルフ」「ヨグ・ソトース」といった彼の創作物に言及するように盛んに勧めたのだった。ラブクラフトの死後、多くの作家が作品を寄せ、皆に共有されているクトゥルフ神話体系を内容豊かなものにした。また、ラブクラフト作品から多くの引用を行った(「大衆文化におけるクトゥルフ神話」を参照)