ラブクラフトの生涯

H. P. Lovecraft - Wikipedia

ハワード・フィリップス・ラブクラフト(1890年8月20日〜1937年3月15日)は、アメリカのファンタジー、ホラー、SF作家であり、この3つのジャンルを1つの物語中で結合させたことで知られている。ラブクラフトの読者層は、彼の生前には限られていたが、現代ホラー小説の作家とファンの間で彼の作品は非常に重要で影響力のあるものになっている。

その生涯

ラブクラフトは1890年の8月20日の午前9時に、ロードアイランド州プロヴィデンスにあるAngellストリート194(現在は454)番地の自宅で生まれた。宝石と貴金属の巡回セールスマンであるウィンフィールド・ラブクラフトと、アメリカにおける祖先が1630年のマサチューセッツ・ベイ・コロニーにまで遡ることができるサラ・スーザン・ラブクラフトとの間に生まれた1人息子であった。その時代では異例なことに、両親ともに結婚時に30代であり、それが初婚であった。ラブクラフトが3歳の時に彼の父親は仕事先のイリノイ州シカゴのホテルで精神に異常をきたし、プロヴィデンスのバトラー病院に収容され、そこで残りの人生を過ごした。父親の病因は精神異常に起因する不全麻痺であり、梅毒によって引き起こされたのかもしれない。父親はラブクラフトが8歳の時に死亡した。

ラブクラフトはその後、母と2人の叔母(リリアン・デローラ・フィリップスとアニー・エメリン・フィリップス)と祖父であるウィップル・ヴァン・ブーレン・フィリップスによって育てられ、彼らは祖父の死まで共に生活した。ラブクラフトは並外れた子供であり、2歳で詩を暗誦し、6歳で完全な詩を書いた。祖父は彼の読書を奨励し、「アラビアンナイト」やバルフィンチの作品のような古典や、「イリアス」や「オデュッセイア」の子供むけ版を与えた。祖父はまた、自作の18世紀英国風ホラーを話して聞かせることで、幼いラブクラフトの超自然的なものへの興味をかきたてた。他方で彼の母は、それらの不安を誘うようなお話がラブクラフトを駄目にするのではないかと心配した。

子供のころのラブクラフトは頻繁に病気になり、体調の悪さとしつけがされていない議論好きな性格のために、彼は8歳になるまで学校へ通わず、そしてその1年後には通わなくなった。

ラブクラフトは飽くことなく読書し、一方では化学を学んだ。1899年の初頭、彼は「サイエンティフィック・ガゼット」紙で小部数の何冊かの出版を行った。4年後、彼は復学した。

ウィップル・ヴァン・ブーレン・フィリップスは1904年に死去し、フィリップスの事業での損失と財産管理の失敗によって、一家は困窮した。一家はこれまでよりも狭く快適さにも劣るAngell通り598番地の貸し部屋に移らざるを得なかった。ラブクラフトは生家を失ったことに大きな影響をうけ、一時は自殺を試みさえした。彼は1908年に神経衰弱に陥った結果、高校の学位をとれなかった。教育をまっとうできなかったというこの失敗は、失望感と恥辱感の源となり、ブラウン大学ラブクラフトが勉学に励むことができなかった一因になった。

ラブクラフトは若い頃から小説を書いたが、その後しばらく、1917年に「墓標とデイゴン」のような洗練された小説を再び書き始めるまで、詩と随筆を選んで小説から離れていた。「墓標とデイゴン」はプロの作家として出版した初の作品であり、1923年にウィアード・テールズに掲載された。またこの頃、非常に多くの文通相手との関係を構築し始めた。彼の手紙は長く、頻繁に書かれ、20世紀中に手紙を数多く書いた作家として有名である。彼の文通仲間には若い頃のフォレスト・J・アッカーマンや「サイコ」を書いたロバート・ブロック、「コナン」シリーズのロバート・E・ハワードらがいた。

ラブクラフトの母は長年にわたりヒステリーと抑鬱を患い、夫が死んだバトラー病院へ精神異常のために入院した。それでも彼女は多くの手紙をラブクラフトに書き送り、1921年の5月21日に彼女が胆嚢手術での合併症で死亡するまで親密さを保った。ラブクラフトは母の死に落胆した。

まもなく彼はアマチュア作家の集まりの場で、ソニア・グリーンと出会った。彼女の祖先はウクライナユダヤ人であり、1883年生まれでラブクラフトよりも7歳年上であった。彼らは1924年に結婚しニューヨーク州ブルックリンに移り住んだ。ラブクラフトの叔母たちはこの取り決めを喜ばなかったかもしれないし、ラブクラフト自身も当初はニューヨークでの生活に夢中になったが、やがてその生活を強く嫌悪するようになった。数年後、かねてから別居していた彼とグリーン夫人は穏便に離婚することにしたが、この離婚はきちんと履行されることはなく、ラブクラフトはブロヴィデンスに戻って叔母達と残りの人生を過ごした。彼らの結婚が上手くいかなかったことから、何人かの伝記作家はラブクラフトが性に関心を持たなかったのかもしれないと推測しているが、グリーン夫人がラブクラフトのことを「満足のいく素晴らしい恋人」だった言っていたことはしばしば聞かれることである。ラブクラフトはニューヨークにいる間、あらゆる努力をして仕事を探したのだが、不可思議なことに全て失敗し、彼の生活は経済的困窮で上手くいかなくなっていった。実際、多くの移民がいる中で何の仕事も得られなかったという気力がくじかれるような現実は、「自分は特権を有する英国系アメリカ人である」というラブクラフトの自己評価と特に相容れないものであり、それは恐怖といっていいほどまでの人種差別主義として理論化されたし、巨石積みの建造物に囲まれた環境での完全な疎外とか、よくわからないものの大群がごったがえしているとかいった形で、彼の文学的主題として繰り返し登場するにいたった。

プロヴィデンスに戻って、ラブクラフトは第10バーンズ通りにある「ヴィクトリア時代風の褐色の広々とした木造家屋」に1933年まで住んだ(この住所は「チャールズ・デクスター・ワードの事件」という作品の中で、ウィレット博士の住居として登場している)。プロヴィデンスに戻ってからの期間はラブクラフトの生涯の最後の10年だったのだが、彼にとって最も実りの多い時期であった。この期間に彼は「チャールズ・デクスター・ワードの事件」や「狂気山脈」といった長めの作品だけでなく、短編の代表作のほとんどを書き、当時の主だった大衆小説誌で(主にウィアード・テールズ)発表した。彼は他の作家の校正仕事をよく引き受け、また、覆面作家の仕事を大量にこなした。その中には「墳墓」「死神(Winged Death)」「アロンゾ・タイパーの手紙」といった最良の作品もある。

彼の執筆の仕事は素晴らしかったのだが、彼はさらに貧窮した。まだ存命していた叔母の1人と、彼はもっと狭くて粗末な貸し部屋に移り住まなくてはならなかった。また彼は、ロバート・E・ハワードの自殺に深く影響された。1936年に彼は腸癌と診断され、栄養失調にも苦しんだ。彼は死まで絶えず痛みにさいなまれ、1937年の3月15日にブロヴィデンスのロードアイランドで死去した。

ラブクラフトの名前はフィリップ家の墓標に両親と共に刻まれている。これはファン達にとっては十分なものではなかったので、1977年に有志が資金を集めてラブクラフトのための墓標を建て、そこにラブクラフトの名前、生没年月日、そしてラブクラフトの私信のひとつにあった「私はプロヴィデンスっ子だ」という言葉を刻み込んだ。プロヴィデンスのスワン・ポイント墓地にあるラブクラフトの墓にはたまに、「クトゥルフの呼び声」に出てくる(元は「名前の無い街」)有名な「そは永久に横たわる死者にあらねど、測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの(大瀧啓裕訳)」という一節が落書きされることがある。