目的を掲げて他人から集めたカネを生活費にするな

最近のネット界では「クラウドファンディング」という概念が話題になっていますね。
この言葉については思うのは、「成功するにはパッケージングが大事だなぁ。ネーミングって大きな力があるんだなぁ」ということです。これは皮肉ではなくて本気でそう思います。ちょっとした気づきが大きな利益を発生させるという例ですね。
大勢の人々からちょっとずつお金を集める場合、掲げる目的は人々の心にフックする感動的なもの、期待させるもの、でなくてはいけませんね。『そのような素晴らしい価値のためにお金を出したい』と感じてもらえることが重要です。
ただ、目標額以上におカネが集まってしまったときに、それを生活費や贅沢に回すのはおかしいのではないか、返すべきなのではないか、ということが論じられたりしています。
この論はちょっと聞くと真っ当な話のように思うのですが、よく考えてみると変ですね。
私たちはもっと大々的な巨額のファンディングの不明朗な使い途を良く知っていながら、「そういうものだから」という感じで看過しています。

私たち全員がファンディングされているアレ

私たち国民は、まともな人間なら全員がファンディングされています。そのファンドとは、「みなに公共サービスを提供するから対価として全員がおカネを出しなさい。払わない人には刑事罰を食らわせます」という非常に強制力の強いものです。
私たちはそのようにファンディングされることについて内心では不満ですが、法律で決まっていることであるし、「公共性」という大義名分もあるので従っています。そして、払ったカネは私たちにむけての公共サービスに使われていると何となく思っています。
しかし、ちょっとだけ注意深く世間を見回してみると、そのファンドの運用担当者が、私たちの収入の3倍、5倍、10倍という収入を得ていたりします。
…変ではありませんか?
私たちは、私たちのための公共サービスが提供されるからという理由で強制的な集金に素直に応じているわけで、ファンドの運用担当者が私たちの10倍もの豪勢な待遇を受けることに納得してカネを払っているわけではありませんね。
強調しておきますが、私たちのカネで収入を得ている「担当者」がさまざまな部門に存在しており、彼らは揃いも揃って私たちの5倍、10倍の収入を得ています。
おかしいなぁ。
先にあげたクラウドファンディングの例では、「掲げた目的に使う以上にカネが集まったら返還しなければならない。生活費に流用するなどもってのほか」という「良識」が言われていたのに、私たち全員がずっと支払い続けている別のファンドについては、私たちから何の許可も得ずに、私たちのカネで豪勢な生活をしている人々が何万人も存在していて、それは私たちに対して何のサービスにもなっていないのに、いかなる批判も受けていないのです。いつの間にこうなったんでしょうね。
私たちに対する公共サービスを提供するから絶対にカネを払え、ということのはずだったのに、そのカネを受け取る人々は私たちより遙かに良い生活をした上に、私たちが受け取るサービスと同じサービスを受け取っている。
全然納得がいきません。
どのような正統性でもってこんなことが行われているのか、誰か賢い人に教えていただきたいものです。

生活保護費が財政を圧迫する?

芸人家族の不明朗な生活保護受給が耳目を集めたことによって、『生活保護が財政をダメにする』といった意見が語られたりしていますが、情報をもっと集めてから意見を言おうよ、と思わざるを得ません。
生活保護にかかるカネは3兆円くらいだそうですが、それを利用している人々は200万人います。
生活保護にかかる3兆円は確かに安いものではないですし、その原資は私たち全員が支払っている例のファンドから出ているので「ちゃんとした使い方をして欲しい」とは思います。
しかし世の中の情報をもっと集めるなら、私たち全員が支払う例のファンドの運用担当者は、私たちのカネから年間12兆円をせしめているということがわかるはずです。
そして、年間12兆円の私たちのカネをたった2万5000人で山分けしているのですよ。
誰の許可を得てそんな贅沢をしているのか、どういった「公共サービス」を提供することによって、そんな多額のカネを受け取っているのか、これまた説明してもらいたいものであります。
生活に困る人々が3兆円を200万人で分け合うことと、全然生活に困らない「担当者」連中が更に贅沢な暮らしをするために12兆円を2万5000人で分け合うことを比べて、本当に「生活保護が財政を圧迫する」などと言えるのですかね。
馬鹿げた詭弁を弄する輩も割り算くらいは出来るはずなので、もう少しちゃんとした論を展開して欲しいものであります。