孤独死は現代に特有のもの?


孤独死を問題視する人々が、それを現代に特有のものと考えているのではないと思いますが、新聞記事にする場合はそのような語られ方をすることが多いです。
これは他の問題でも同じで、いじめ自殺やひきこもりでも同じような語り口でなされました。
これは新聞の文化みたいなもので、「新聞記事は現代社会の問題に取り組む」という、読者への見せ方がセオリーとしてあるからかもしれません。
孤独死を現代の社会・経済的問題の表れとして分析して解決策を提言していくのは全く構わないのですけれども、別に茶々を入れるわけじゃありませんが、孤独死は歴史的に見るとむしろ普通です。
学校の教科書では社会の暗黒面をほとんど扱いませんから、少し歴史が好きで読書するような人でないと人間がいかに普通に悲惨であったかなんて知らないのですね。
今の社会でも別に孤独死に限らず、家族に恵まれていても悲惨な死はそこらじゅうにあるのですが、歴史好きとか社会問題好きでも無い限り、自分が死に直面する状況にならない限り、人の死は悲惨なんだということに思い至らないということも多いのでしょう。
私の祖父は家族に恵まれていて、病院で死ぬことになりましたが、孤独死と変わらないくらい悲惨な死でしたよ。
病院で死ぬということ」という映画があるくらいですから、そのことを知っている人は結構いると思いますし、理解できないのは「充実した人生をおくるには充実した生活をおくること。」とかいう馬鹿くらいでしょうが。
日本に限らず、人間の社会は苦痛と死に満ちていました。今の日本が例外なだけです。
昨年は平城京1300周年でしたっけ、「せんとくん」などといってほのぼの観光イメージを喚起していましたが、平城京なんて少し前のインドと同じようにそこらじゅうに死体がごろごろ転がっていて野犬に食われているという世界でした。平安京も同じです。
そんな死体なんぞ誰もがほったらかしで、支配層は遠慮会釈なく重税を課して贅沢三昧の生活をおくっていた、それが奈良時代平安時代です。
古代の優美な文化はそのような支配層のひとびとの手慰みでありました。(芸術的な価値は認めますけどね。それは別問題。)
たとえば空也上人はそれら放ったらかしにされている死体を弔ってくださったから皆に尊敬されたのです。
たったそれだけの事が、非常に例外的に心優しい好意であり、人々の心に人間性をわずかに回復させていたのですから、いかに酷薄な現実を生きていたかということです。
今の社会に目を戻せば、現在の日本は豊かで安全で制度も整っていますから、我々の祖先のような酷い目に合わされることはなかなかないでしょう。
しかし現実、つまり人間の性質が酷薄なのは変わらない事実です。
派遣切りだの内定取り消しだのデフレ放置だの弱者軽侮だのといった事象に今も事欠きません。
だから孤独死は人間の酷薄さが生じさせる、さまざまな悲惨のひとつに過ぎません。
いくら綺麗事で覆い隠されていても、そのような寒々しい真実に自覚的にならなくてはいけません。
人間の本性にまつわり、決して根絶できない醜悪さがあるのだと思います。
しかし、それら醜い真実を単に受け入れてしまうのが嫌で、なんとか抵抗したいと思うならば、自分がそれらといかに対峙するか、他者が酷薄な現実に直面していることをどのようにサポートするのかを、人間の内面、社会の仕組みの両面から考えて助言・行動することが大事なのだろうと思います。
考えるのを面倒がって、「上手くいかないのはそいつのせい。充実した生活をおくる努力をしていれば人生の全ての面で充実する。」などといった中身のない言説を撒き散らさないようにしたいものです。