携帯小説が叩かれる意味がわからない

アマゾンのレビューとか読んでいて面白いですけど。
レベルが低いのは確かでしょうけど、それは読者に合わせて書いているのですから書き方としては真っ当だと思うんですけど。お客さんのニーズに合わせるのは基本でしょう。
若者がまるで活字を読まなくなるよりは何でもいいから読んだ方がマシなんじゃないかと思いますし。
叩いているのが小説家志望の人たちであるというのなら理解できます。携帯小説のようなものを書きたくないのに、プロになろうとするとああいうものを書かなくてはならなくなるでしょうから…

ケータイ小説について以前書いた文章が

見つかったので載せとこ。

今の小説で例外的に読まれていることが多いのはケータイ小説であり、書店にいくと書籍化された作品をしばしば見かけます。
ヒットしたケータイ小説の作者が「読書しない層を念頭において書いた」と発言しているのを耳にして、「うへ斬新だ」とまじめに感心したことがあります。
普段読書せず読解力がない人々に向かって文章を書くという発想はなかなか出てくるものではありません。
書くことに入れ込んでいる人は、ものを読まない人に対していい感情を持たないものですが、ニッチな市場で当てるためにはそれじゃ駄目なんですね、よく考えると。
よく読む人は書かれたものをよく理解してくれるでしょうが、そういう人々は数が少ないので大ヒットになりえません。
文字を読まない人たちに売ろうとしたら、画像や音を使うのがセオリーですが、そのような特殊技能はもとより無い。かけられるお金もない。
そこでどう工夫したかというと、ほとんど読書しない人でも知っているような表現や内容で物語を作るという手法を用いたわけです。
テレビ番組で、ヒットしたケータイ小説の一部の朗読を聴いたときには、もうとても聞いていられないような陳腐な描写と展開の連続でしたので、自分で読もうなどという気持ちは全く起こらなかったのですが、作者が狙っている読者層にはぴったりとふさわしいものだったのであって、実際に奏功したのです。
色んな書物に慣れている人にも感銘を与えられるように文章を創意工夫する、という従来のものの書き方とは真逆の手法が成功につながったのです。
プレイン・イングリッシュの解説文などには「判り易い文章を書くためには、読み手の教養の程度を考えて書け」と書いてあります。プレイン・イングリッシュは説明文用の文体ですから文学にあてはめてはいけないものなのかもしれませんが、その考え方は文学というか売れる小説を書く際にも有効であるのが証明されているということです。