スペインにおけるガルゴ達の生

Greyhounds in Need - greyhound & galgo rescue, homing, rehoming, adoption, sponsorship & merchandise (charity)

【意訳】
The Life of a Galgo in Spain
ガルゴに起きていることを理解するには、40年から50年遡る必要がある。農夫が農作業をしている間に、ガルゴはウサギを夕食用に持ち帰る役目だった。
ガルゴは普通屋内にくらし、残飯をもらっていた。その当時にはペットという言葉はなかった。ガルゴは自分の食い扶持を稼ぐために、主人のために狩りをし、家畜を守った。家族は多く、収入は少なかったので、犬は単なる道具とみなされていた。
ガルゴが良い狩人なら主人はきれいな水をやり、家族の夕食の残りをやった。しかし、それは犬と主人の関係にすぎなかった。
犬が病気になると、獣医につれていくことなど贅沢すぎてできなかった。代わりの犬は隣近所で手に入った。ほとんど誰でも犬を繁殖していたのだ。
今日でも多くの物事は同じだ。ガルゴに関することについて、祖先と我々は同じように考えている。
筆者はラ・マンチャという土地に住んでおり、そこにはワイン畑が多く、狩猟が人気のある娯楽だ。猟師はガルゴを乱繁殖させる。動物を保護する法律はあるが、ペットと見なされたことがないガルゴには当てはめられることがない。農夫たちにとってガルゴは単なる猟犬なのだ。
私は人生をつうじて、ガルゴに対する残虐行為を見聞きしてきた。公衆の注意をひくほどの行為だ。世界の他の場所と同じ様にスペインにも残酷な人々はいるが、「スペイン人は残酷だ」という言い方ではこの問題の大きさを説明できない。
ガルゴに対する残虐、遺棄、は長年にわたる、ガルゴへの無知の結果だ。この無知にとりくまなくてはならない。
10年か15年前になるまで、犬に餌を買ってやるとか獣医につれていくとか考えたスペイン人はいなかった。(この文章は2003年のもの)
獣医の役割は牛や羊など、有用な家畜の面倒をみることだと考えられていた。
今日ではガルゴの境遇を改善する活動が、外国からの支援もあって盛んになっているが、足りない。毎年猟期がおわると、スペインの路地は捨てられたガルゴで満ち溢れる。
ガルゴは毎年繁殖させられるが、例えば七匹生まれても二匹しか必要ない場合には間引かれる。間引く方法としては、カバンに仔犬を詰め込んで排気ガスで窒息死させる(仔犬は何も感じない、と繁殖者は言うが)、道端にすてる、ドッグシェルターに投げ込む、などなんでもござれだ。
選ばれた仔犬はもっと悪い境遇におかれる。腐ったパンと水で育てられ(そのせいで骨の発育異常が発生して走ることができなくなることがよくある)、母犬や人間のあたたかみを少しも与えられない。
そのうち主人と一緒にガルゴ達は狩りに出かけるが、日光や新鮮な空気にはむしろ違和感を感じる。閉じ込められていたからだ。他の犬を見まねで狩りを行い、もし出来が良ければ家に戻って腐ったパンと水を与えられ、今少し生きることが許される。
しかし、もし上手く出来なければ怒り狂った主人に叩きのめされ、「教育」される。
そして主人は乱暴にガルゴ達を車につみこみ、「明日もう一度チャンスをやろう。うまくできなければ…」などと考える。
語られなかった部分は、ガルゴにとって最悪の事態を意味している。
翌日、主人の期待どおりの働きができなければ、家に戻ることはできない。
しかし、主人がいつもガルゴを撃ち殺すわけではない。そんなガッツがない場合もある。そのような場合は単に置き去りにするだけだ。そこには一滴の水もない。
多くの犬はそこで餓死する。病にかかり、おびえながらもなんとか村にたどり着くガルゴもいる。だれもガルゴ達には気づかない。そのような風景に慣れきっているからだ。ガルゴ達は立ち去る。
ガルゴたちは夜に移動する。多くのガルゴは路上で死ぬ。日中に猟師に見つかると射殺される。(狩猟の邪魔になるからだと猟師たちは言う。)撃たれることからのがれたガルゴは道端で死ぬ。死骸をどける者もいない。ドッグシェルターに半死半生でたどり着くガルゴも僅かにいる。
生き残ったガルゴは複数の骨折、リーシュマニア症、栄養失調、外傷、寄生虫を負っている。身ごもった牝はほとんど歩けず、骨と皮の状態だ。
ボランティアたちは惨状に圧倒される。獣医にかけたり、薬をやったり、餌をやる資金がない。ガルゴ達はただ撫でられることを求めている。
遠く離れた場所へ貰われていって幸せになったガルゴの写真をもらうこともある。私は両親や祖父たちの態度と無知を変えて、よりより世界を子どもたちのために作りたい。
ガルゴを里子にもらおうかと考えることもある。しかし、私の飼う他の犬と一緒にガルゴをスペインの田舎で歩かせると危険なのだ。盗まれるかもしれない。また、ガルゴが幸せそうに駆けているときに銃声を耳にすることには耐えられない。この文章を家で書いているときにも聞こえてくるような。
今のところ、無知から無事でいられるガルゴはいない。私たちは何百、何千ものガルゴを救えるかもしれない。しかし、無知をなくす努力をしなければ、ぱっくり開いた傷にバンドエイドをあてるようなムダになるだけだ。