政府が『大きい』『小さい』いうのもねぇ

こういう線引はもう適切でないような気がするんですね。
大きな政府』なるものの定義を見てみると、*1賛成の部分もあるし反対の部分もある。
『小さな政府』も同様。
大きな方に賛成なのか、小さな方に賛成なのか、という議論を目にすることもありますが、その定義の既存のパッケージの内容には必ずしも連関がないように思えるので、そういった議論が奇妙に聞こえます。
例えば、リフレに賛成する人は基本的には市場の果たす役割を肯定するでしょうが、一方では財政政策を通じて政府が経済に働きかけることにも賛成し、その方法として富の再分配を提案することもあれば大企業の法人税を下げることを主張することもあります。同時に、規制緩和が必要な分野を指摘したり、逆に規制を強めるべき分野があることを指摘したりもします。
これらは全部両立することであって、矛盾はありません。
政策的に合理性や効果があることを挙げていけば、それは所謂「大きな政府」「小さな政府」という概念の範疇には収まらなくなるわけで、概念の範疇を先に定めて「どちらをとるか」と考えるのは非合理的だということなんですね。
こういった概念先行の論議はレッテル貼りやワンフレーズ・ポリティクスに陥る危険性があるので不適切ではないかと思います。

よくある不適切な単純化

朝日新聞 天声人語 2012年10月27日(土)付
 前略
▼政界は再編の途上にある。旧来の価値観や秩序を重んじる保守と、個々の自由に軸足を置くリベラル。競争と自立を促す小さな政府と、弱者に優しい大きな政府。乱雑なおもちゃ箱のように、二大政党にはすべての主張が混在する▼安倍さん率いる自民党など保守の品ぞろえに比べ、反対側、とりわけ「リベラル×小さな政府」の選択肢が寂しい。今から再編の荒海に漕(こ)ぎ出すなら、この方位も狙い目だ。もとは「泥船」からの脱出ボートでも、針路を問わず、漕ぎ手しだいで船の名が残る。

こういう二分法を最初にしておけば後々レッテル貼りに使えるという利点がありますが、それは偏見でしかないですし、世間に間違った考え方を広めるので良くないと思うんですね。
「旧来の価値観や秩序を重んじる保守と、個々の自由に軸足を置くリベラル」といった書き方は言外に「保守は個々の自由に軸足を置かない」と言っているわけですが、この場合の自由がどの自由なのか不分明です。
保守であっても経済面での個々の自由は重んずる、という立場もあるわけで、この二分法は曖昧な上に包括度も低いという質の悪いものです。
また、「リベラル×小さな政府」というのはこのコラムでの定義からすると「個々の自由を重んじ、競争と自立を促す」ということになるのですから、このような主張をしている人は珍しくないんじゃないかと思います。特に経済面では。現状把握にも問題がある文章だなぁと感じますね。
ただ、経済面で「個々の自由を重んじ、競争と自立を促す」というのも原則的には良いと思うのですが、原理主義的にならないで欲しいんですよね。
世の中では特に他人を批判するときに建前だけで、つまり原理主義的に非難を浴びせる人がいるので困ります。
原則的には私たちは自立するべきだと思うのですが、だからといって安全網が要らないわけではないので、昔の海軍が「お前らは勇敢に戦うよな。命を惜しまないよな。じゃあ装甲はいらないよな」といってペラペラな戦闘機で若者たちを無為に死に追いやったようなロジックが日本社会では今だに見られます。
周りがある人を極端な主張に追い込んでいくような非生産的な論議は馬鹿に見えるのでやめて欲しいと思います。
特に新聞には。

*1:この定義も諸説あるはずですが