愚かであることが死を招く。

民主党政権はどうあっても増税する魂胆のようで、1997年の消費税増税によって年当たり8000人の自殺者増が今だに続いているという事実がありながらも方針転換する様子は全くない。
これはつまり「日本国民であっても貧乏人なら大量死しても構わん。」という意思の表れであり、今後の増税は貧しい国民に対して危害を加える明らかな意図をもって為されるということである。
古代朝廷は農民に強制して庸・調を奈良まで運ばせ、途中で彼らが餓死しようが病死しようがお構いなしであった。防人にとることによってその家族が働き手を失って全滅しようが意に介さなかった。これは古代の支配層が農民を同じ人間とは考えておらず、土地から利益を生産して自分たちに貢ぐ装置に過ぎないと認識していたからで、農民の死は固有の意味を持つ死ではなく貴種に富をもたらすシステムの内の消耗品の摩滅でしかなかった。人間など腐るほどいるのだから代わりはすぐに見つかるのである。
多くの人が「まさか」と思うことだろうが、今の日本政府も全く同じ事を考えている。原発といいデフレ放置下の増税といい、彼らは我々を人間と看做していない。そのような恐ろしい現実を人は信じたくないから信じないが、多くの状況がそれを物語っている。その物語を自己欺瞞や怠惰によって見過ごすのであれば、いま困窮して死んでいく人々の次に死の淵に押し出されることになるのは我々であるかもしれない。
経済失政の問題は欧州でも発生している最中だが、このような問題が危機の根底にある際の難しさは「人々がそれを理解するのに労力がかかる。」という点である。この問題はある程度込み入った連環が分からなければ問題意識を持つことができない。それどころか全く正反対の内容を持つプロパガンダに乗せられてしまうことも多い。プロパガンダの方が正しい議論よりも人々にとって簡単で魅力的なストーリーを提供するからである。
人々が求めているのは「労力のかかる正しい認識」ではなく「容易に分かって面白い物語」だ。正しい認識を提供する誠実で実力のある人が「軽薄で虚偽に満ちた有害なエンターテイメント」を世の中に提示することは無い。出来ないのである。誠実な人は誠実である故に、魅力的な詐話師に負けるのである。これはどの分野でも普遍的に見られる現象であり、人間の理性に失望を抱かされる。
デフレや円高、不況下の増税に対して批判をし得る人々は確かに増えてきた。しかしそれは何千人であろうか?何万人かはいるのであろうか。
仮に数十万人が理解していたとしても残念ながら心強くはなく、期待も持てない。日本の有権者数は2010年で1億451万3907人だそうである。そのうち4割しか投票しないとしても約4200万人。4200万人のうち正しい政策を主張する政党を支持する人々が相当数にのぼらなければ、真っ当な形で合理的な政治をすることができないのである。要するに民主主義が理性的に正しく機能して社会の安寧を実現する可能性は絶望的に存在しないということだ。
となれば、あとは個人の人生と同じく運を天に任せるしかない。真面目に憂えても意味など無い。人々に何らかの流れで広く支持された人物がたまたま正しい政策を行うだけの見識と意志を持っていることを期待するしかない。人間は自分たちで道を選べるほどには賢くないということである。