デモするのもはばかられる社会

日本でもワーキングプア1000万人という報道がありましたが、勤労者が6000万人くらいと言われているので大変な数です。
特に若年層で「プア」は問題なのだと思いますし、年金も考慮すると将来に渡って、人生の終末期にいたっても「プア」につきまとわれるという深刻な状態なのだと思います。
この問題にまつわる日本人の病理は、自分がそのように生涯にわたって不公正にさいなまれることに不満を感じていながら投票に行かない、デモもしない、という消極性にあると思います。それでもって自殺数は先進国の中では目立って多い。
その原因のひとつとして、「文句を言う奴はとにかく我侭だ」という非合理に一般化された「道徳」が関係していると思われます。
日本人は一般化にそぐわないことでも一般化して語る傾向が強く、「一事が万事」という理性のカケラもない決め付けがことわざになっているほどです。
最近話題になっているのはフジテレビの韓流ゴリ押しに対するデモで、右寄りの人は賛成だし左寄りの人は「くだらん」というわけですが、元々韓流はおろかテレビにも関心がない私としては「どちらでも良いのだけれども、デモするのも積極性があっていいんじゃないの。」という感じになってきました。韓流反対がデモまでする価値があるとは個人的に思わないのですけれども、そのように思う人がいてアクションを起こしても社会的に害はないし、意見表明に積極的であるという面では褒められてもおかしくないというニュアンスです。
アメリカでは金融業者が税金で救済されていながら高給を得て、不利益だけは社会一般に押し付けていることに対してデモが行われています。これは極めてまっとうな主張であって、フジテレビへのデモとは違って一般的価値があると思うのですが、どういうわけか同列に扱ったり否定的に捉えたりという向きもあります。
特に変なのは、「先進国のプアは途上国からみればリッチなのだから、デモなんぞやるのは驕り。」という批判で、なんという詭弁なのだろうと思います。
「プア」かどうかはその社会の中で見なければならない問題で、基準の違う社会と比べても全く無意味です。
例えば江戸時代の日本は現代日本と比べれば経済規模でみても消費エネルギー量でみても技術的にみても食糧の種類や量の行き渡り方でみても明らかに貧しい社会でしたが、「江戸で一日3〜4時間働けばその日暮らしはできる」社会でもあったわけで、現代社会で同じ事をしようとすると職種が相当に限られてしまうことを考慮すれば、「貧しいってどういうことなの?」とわからなくなる筈です。それは当然のことで、社会を成り立たせている条件が違うのだから比べるのが不適切だからです。
もう一つ例をあげるなら、もし現代日本で残金100円で、もう収入を得る見込みがないなら1ヶ月以内に餓死してしまいますが、途上国で日本円100円相当の現地通貨をもっていればもっと長生きできるでしょう。また、周囲に残っている自然の植物・動物を採って食べられるという条件も加わるならもっと生きることができます。つまり、同じ額の日本円をもっていた場合には日本にいるより途上国にいる人の方が生き延びる可能性がより高いということになるわけで、先進国にいる方が「プア」ということになってしまいます。これも別に不思議なことは何もなく、物価水準などの諸条件を考慮したら当然のことです。社会を構成している諸条件が違うという単純な話です。
問題は、デモに参加している人々の生きる条件が、彼らの生きる社会で生き延びるのに適切かどうかということであるのです。貧しい社会では貧しい社会にみあった収入と物価・物資の関係があるはずです。詭弁を弄する人々の言うとおりに考えてしまうと「収入は途上国級に極小だが物価は先進国波に高い。」というおかしな状態になってしまい、途上国の人々は全員が一ヶ月以内に餓死する筈になってしまい(人間が水だけ摂取して生きられると言われる期間。)、途上国に人々が生き続けているという現実があり得ない筈のものになってしまいます。
以上に述べたような事は少し考えると誰にでもわかることだろうと思うのですが、何故か詭弁を弄する人々、詐話ばかりしている人をよく考えもせずに支持する人が多いのですね。選挙と同じく、「気に入ったから」というだけで自分で考えることもなく賛成してしまうという心理的問題が見て取れるように思います。
「考える能力はあるのに考える意志がない。その結果不適切な帰結が社会にもたらされる。」という病理は人間一般に見られる宿痾なのかもしれませんね。日本の政治、経済のダメさ加減を見るにつけ、問題意識を持つよりは達観してしまった方が楽な人生をまっとうできるのかもしれないと思うようになりました。