一点のみに着目して脱原発を否定する欺瞞

死者数のみに着目して原発問題に言及するのは欺瞞、という考え方が方方で語られているのですが、原発賛成派の人は一向に耳を傾けません。
今や常識のようになりましたが、被曝によって病気になってもよほど明らかな場合でない限り因果関係が証明できないという事情があります。
放射能汚染された地域で白血病が増加しているとか先天性異常が増加しているとか言われていますが、過疎地で汚染が発生すると人口が少ないので研究対象としては足りない、という事になり公式に認めてもらえないということが起こります。
原子力関係の事故はこの60年の間に何度も発生していますが、人口密集地域で毎年のように起こるわけではないのでどうしても研究が進まないわけですね。
私が「おいおい」と思った例としては、セラフィールドの再処理工場で汚染水を垂れ流しにしていたところ、近くのシースケール村で子供の白血病が10倍になっていたりしたのですが、「数千人以下の調査では十分ではない。」という評価を受けてしまっていたことです。つまり、数が少ないので断言できないと評価されているのです。
これは相当な規模、数千人で足りないならおそらくは数万人を調査対象としないと公式に認められることはない、ということになります。
原発は過疎地に造られることが多いですし、どこぞの政府のようにどの程度被曝したのかをウヤムヤにしてしまうこともあるのですから、「数万人を対象とした厳密な調査」など可能なのかどうか疑わしいと思います。
それに被曝で引き起こされる病気は癌や白血病に限らず、「あらゆる病気の危険性を増加させる。」という意見を述べる医師もいます。しかし、それも「科学的」には確かめようがないからいつまでも漠然とした危険、不安から前に進めないのでしょう。原発事故が毎年起これば研究も進むでしょうが、あり得ない話です。
人が死ぬ、という事態は引き起こされると取り返しのつかない事態です。
ということは、「人が大量に死ぬ可能性があって確かめられていない。確かめられていないから大量死の危険を冒しても良い。」と言ってよいのかどうかです。
政策としてそのような考え方を進めて良いのか?
また、人の死だけに着目するのが妥当なのか、という問題もあります。
原発は人の死を引き起こすかもしれないことが確かに問題視されていますが、その他にも経済的、環境的、社会的(ある階層の特権階級化、地域差別、今の世代と未来の世代の便益における圧倒的な不公平性など)が山積しており、やはり方方で指摘されています。原発賛成派の人々が人の死だけに注目して他の問題点を没却している点が不可解といえましょう。
一方で火力発電が問題を抱えていることも確かです。私は二酸化炭素による温暖化は全く説得力に欠けると思うので、その点は全否定しますが、大気汚染はするでしょう。
しかし、火力発電による大気汚染はコストをかければ軽減できる問題です。原発事故のようにコストをかけても根本的に解決不能、軽減不能、統制不能、といった性質をもっておりません。
また、環境面でも費用・便益の関係でも、未来の世代に一方的に不利益を押し付けるものではなく、現在利益をえている我々がそれらを負担するという意味で、世代間で公平な発電法と言えます。
火力発電によって燃料費が大きな負担になるのは確かでしょうが、電力会社の過剰な待遇、必ず儲けが出るのでコストを度外視した浪費体質をそのままにして火力発電のコストを問題にするのは片落ちです。それら浪費部分を是正すれば相当なお金がうきます。
また、火力のコスト増大は脱原発が前提なのですから、原発の建造費、交付金、使用済み燃料の保管・再処理・廃棄のコスト、天下り先の一掃、役立たずの安全委員会の廃止、といった諸々のコストカットを計算にいれると本当に火力のコストが「賄いきれないほどの負担」なのか怪しいものです。例えば再処理のコストだけで10数兆円ですよ?最終処分場をこれから何箇所造らなければならないか、などを考え合わせてみたらどうでしょう。