サムライは剣道、柔道・合気道の祖

何気に勇気ある記事。
http://www.chosunonline.com/article/20080713000016
http://www.chosunonline.com/article/20080713000017
普通な感じで書いてますから、事情を知らない人は「普通じゃん」と思うだけですが、剣道・柔道・合気道が日本起源であるという事実を書くのは、かの国では反発を食らう可能性があるんですよね。
領土問題で反感が燃え広がっている時期だし、牛肉問題じゃ攻撃もされているのに、こういう記事を書くのはなかなか誠実というか男気があるというか。
ネット上からそのうち消えるかもしれないので、申し訳ないけど全文引用。

 「イタリア中部のリボルノ市にある空輸部隊では、77歳の日本人女性がさまざまな武術を教えている。1931年に大阪で生まれたこの女性は、“偉大なサムライ、ウエシダ・キソマルの門下生”と話している。」(聯合ニュース6月25日報道)

 日本の武道家人名録やインターネットサイトには、「ウエシダ・キソマル」という人物はいない。ただ、植芝吉祥丸(うえしば・きっしょうまる)=1921‐99=といえば合気道の二代目継承者で、日本の武道界で有名な人物だ。この記事を報じたイタリア日刊紙のサイトを見ると、案の定「女性はウエシバ・キッショウマル(Ueshiba Kisshomaru)から合気道を習った」と書いてあった。

◆将軍の剣術師範、「柳生流」と「一刀流」 

 17世紀に日本を統治した徳川将軍家の剣術師範には、二つの流派があった。柳生流と一刀流だ。柳生流は竹刀を使い、一刀流は木刀で「実践剣気」を教えた。歴代の将軍たちは柳生流を、将軍お付きの武士は一刀流を好んだ。

 柳生流の創始者柳生宗厳は相手を切らずに制圧する「無刀取り」の境地を会得した。柳生宗厳は「剣術指南役になってほしい」と徳川家康に請われたが、高齢を理由に固辞し、その代わり五男の宗矩を推挙した。宗矩は「大坂の役」(1615年)で敵兵数十人が本陣を急襲した際、家康の息子で徳川第2代将軍・秀忠の前に立ち、一瞬にして敵7人を切り、名をはせた。

 一刀流は現代剣道に多大な影響を及ぼした。一刀流の始祖である伊藤一刀斎は真剣勝負33回で57人を切り、木刀勝負では67人を制圧した。伊藤一刀斎が使った日本刀は「かめ」に隠れた賊を切ったといわれる名刀「瓶割刀(かめわりとう)」だ。一刀流の正統な継承者だけがこの名刀を受け継ぐことができるとされている。

 19世紀半ばには、718もの剣術流派があった。だが明治維新以降、剣術は剣道と名を変える。当時、警察関係者らが各流派の名手25人を招き、その術を十の剣道形(かた)にまとめたのが現代剣道の始まりだ。
◆一度に50人と戦い、7人斬ることも   

 サムライはよろいを身に着け、戦いの途中で刀ややりが折れたら、素手で相手の関節を曲げたり、相手を投げたりした。こうした武術を「柔術」または「柔(やわら)」という。

 日本各地には19世紀まで、柔術流派が179あった。中でも最も強く神秘的な流派が「大東流合気柔術」だ。日本で最強の武力を誇った会津藩の上級武士にだけ極秘で伝えられたというが、武田惣角(たけだ・そうかく)=1859‐1943により一般に広められた。

 武田惣角は150センチといわれる小柄な体格で近代日本の武術界をリードした。武田惣角は手足や体の一部に触れられると、相手がいくら巨体だったとしても一瞬のうちに関節を押さえ、へし折ってしまったという。剣の達人でもあった武田は、あるとき50人以上の敵と真剣勝負をし、7人を斬(き)ったこともあるそうだ。

 武田惣角の弟子として最も有名なのが植芝盛平(1883‐1969)だ。植芝盛平大東流合気柔術を誰もが安全で易しく身に着けられるよう、「合気道」という新しい流派を作る。大東流合気柔術では相手の骨を完全に砕いたり、間接を外したりするが、合気道は無駄な力を使わず効率よく相手を制する。ちなみにイタリアの日刊紙に登場した「植芝吉祥丸」は盛平の三男だ。

◆サムライの「素手の武術」が柔道に発展 

 柔術は近代以降、柔道になった。「柔道の父」と呼ばれる嘉納治五郎(1860‐1938)は講道館を創設し柔術の各流派を束ねた後、その術を統合し柔道を作った。東京高等師範学校(現・筑波大学)校長などを歴任した彼は1909年に国際オリンピック委員会IOC)委員になり、柔道をスポーツとして世界に知らしめた。嘉納は白い道衣と段級位制を取り入れた。

 講道館には四天王と呼ばれる4人の傑出した柔道家がいたが、中でも西郷四郎(1866‐1922)は柔道史上最強の人物だ。西郷の必殺技は、相手の中心を崩してから自分の足で相手の足を払い上げ1回転させ畳に投げつける技で、「山嵐」と呼ばれている。

 嘉納治五郎のもう一人の弟子、前田光世(1878‐1941)は柔術をブラジルに伝え、そこからブラジリアン柔術グレイシー柔術)という異種格闘技が生まれた。「2000戦1998勝2敗」…前田光世は生前、ヨーロッパやアメリカを渡り歩き2000回以上の試合に臨み、負けたのはたった2回だけという異種格闘技の神話を作ったとされている。

チョ・ミヌク記者
朝鮮日報朝鮮日報日本語版