インパール作戦
「失敗の本質」より
P151
部下の反論に耳を貸さない牟田口の積極論を現地で制止しうるのは、河辺方面軍司令官のみであった。しかも河辺は盧溝橋事件当時、連隊長牟田口の直属の上司たる旅団長であり、それ以来両者はとくに親しい間柄であった。しかし牟田口がインパール攻略論を唱えたとき、河辺は「なんとかして牟田口の意見を通してやりたい」と語り、方面軍高級参謀 片倉衷少将の言葉を借りれば、軍司令官は私情に動かされて牟田口を制止しようとはしなかった。
稲田正純・南方軍総参謀副長と方面軍の中永太郎参謀長は、牟田口の案が地形・補給を軽視していることなどを理由に修正を求めます。また、インパール攻略に失敗した際の防衛線構築を考慮した修正案を提示します(失敗の際の対応案をコンティンジェンシー・プランという)。
P156
しかし、第15軍の作戦計画は、たしかにアッサム進行の力説はやめたものの、他の面では少しも修正の動きが見られなかった。そして中は、こうした第15軍の態度に対する不満を河辺方面軍司令官に伝えたが、河辺はこれを押さえてしまう。
…牟田口の心情をよく呑み込んでいると自負していた河辺は、彼に対して作戦目的を十分徹底させるだけの努力を払わなかった。
P159
…中参謀長は、第15軍の作戦構想が少しも改められていないことを知ったにも関わらず、あえて異論は唱えず、その鵯越(ひよどりごえ)作戦計画を黙認した。しかも…「第15軍が練りに練った作戦だから」とその作戦計画の採用を稲田に要請した。それは方面軍司令官(河辺)の意向の反映であるとともに、軍事的合理性よりも人間関係と組織内の融和を重んじる態度の反映でもあった。
P160
大本営の中枢、参謀本部作戦部長・真田穣一郎少将は、ビルマ防衛は戦略的持久作戦によるべきであり、危険なインパール作戦のような賭に出るべきではないとみなしていた。…綾部(稲田の後任)は、この作戦は戦局全般の不利を打開するために光明を求めたものであり、寺内(寿一)南方軍司令官自身の強い要望によるものである、と大本営の許可を懇請したが、真田はそれに答えて、戦局全般の指導は南方軍でなく大本営の考慮すべき任務であると反論した。
ちょうどそのとき、杉山元・参謀総長は、寺内のたっての希望であるならば南方軍のできる範囲で作戦を決行させてもよいではないか、と真田の本意を促し、ついに真田も杉山の「人情論」に屈してしまった。またしても軍事的合理性よりは、「人情論」、組織内融和の優先であった。
P163
しかし、客観的に見て、きびしい地形を克服し三週間でインパールを攻略するのはきわめて困難であった。…中方面軍参謀長は翌年1月中旬、第15軍に攻勢命令を出す際、主攻勢方面と兵力量を明記することによって方面軍の作戦構想(作戦不成功の場合を考慮したもの)を第15軍に強要しようとした。ところが河辺は、「そこまで決め付けては牟田口の立つ瀬はあるまい。また大軍の統帥としてもあまり格好がよくない」と、中の命令案を押さえてしまった。ここでも「体面」や「人情」が軍事的合理性を凌駕していた。
作戦は動画にもあるとおり、完全に失敗し、悲惨な事態を迎えます。