「ケータイ小説」がベスト3独占

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20071204it09.htm

純文学の関係者からは、文章がつたなくストーリーも型にはまりがちと見られ、異端視されてきたが、出版界もその動向を注視せざるをえない存在となりつつある。7日発売の老舗文芸誌「文学界」1月号は、「ケータイ小説は『作家』を殺すか」と題して大手文芸誌初のケータイ小説特集を組み、文学への影響を分析。

 同誌編集部は、「文学は時代を反映するという意味では、文芸誌もケータイ小説を無視できない」と説明する。

 次の作家を発掘しようという動きも盛んで、昨年、スターツ出版などが「日本ケータイ小説大賞」を創設。ゴマブックスオリコンも今月、サイトを新設し、賞金1000万円の「おりおん☆ケータイ小説大賞」を始めた。

ケータイ小説が爆発的に売れるのは短期的な現象だと僕は予想しますが、いずれは世の中の一部として存在し続けるようになるんじゃないかな、と思います。
音楽でもゲームでも、売れるトレンドが見えたときに起こることは似ています。だから多くの人が「2番煎じが続々と登場して飽和して収束する」というどこかで見た結末を予測しているでしょう。
ただ、だからといってこの現象にネガティブな印象を持っているのではなくて、ネガティブな評価ばかり浴びせられることに違和感があるくらいです。

文学を云々するほど

「こんなレベルの低い小説が持て囃されるようじゃ世も末」という批判に対しては、そういう人は普段どれくらい所謂「文学」を読んでいるのだろう、と疑問に思います。
僕は子供のころから思春期にかけて小説をたくさん読みましたが、文豪が書くような小説はそれほど読みませんで、大人からは見下されるような作家のものを読んでいました。
大人からいくらバカにされても、その当時の僕は本当に感動して読んでいたのだし、そうである以上は必要な物語だったわけです。
昔は散々軽侮されていた作家の皆さんがいまや大家扱いだったりノーベル文学賞候補だったりしますから、世の中はわからないものです。
このような意味で、読者が「感動」して読んでいるものを読まない外野がバカにするという風景には全然共感できなかったりします。
バカにする人たちはどれくらい高度な文学に接しているのでしょうか。
芥川とか太宰とか適当に名前を挙げるのはなしの方向で…(個人的に芥川龍之介はつまんない話をたくさん書いていると思うし、文章もそれほど上手くないと思うのですが、文豪の権威の前には説得力ないですね)

良い文学が良い人間を育てる?

若いころに良質の文学に接しておけ、という意見も半分は賛成で半分は疑問です。
大体「良い文学」の定義を簡単に提示してしまう人を僕は信用しませんし。
上手い文章を読んでも文章が上手くなるとは限らないし、道徳的に良い小説を読んでも道徳的な人間になるとは限りませんし、そもそも道徳的な小説と不道徳な小説のどちらが人間に深みをもたせるか、なんて問題は結論が出ませんから。
ある作品から何を学ぶかということは、受け手にある無数の条件に左右されるので一般化できません。

普段読まない人を読ませている

ケータイ小説がなければ、テレビ映画ビデオ音楽マンガ等等の、他の娯楽を楽しむだけである層を小説に引き寄せた功績は確かにあるのではないでしょうか。
だからこそ今までにないヒットが上乗せされているわけで。
ケータイ小説の読者は「良い物語を与えればよく読むようになる層」ではありませんから。ケータイ小説以外にはおそらくほとんど何も読まない人が多いのではないでしょうか。
つまり、既存の「書かれた物」がひきつけることができなかった人々を本の世界に顧客として導いたというのは割りと大きな成果だろうと思います。

想定する読者

小説は「これを書きたい」という人と「それを読みたい」という人のやり取りですから、もともと「それ」に興味のない人には全然関係ないものなんですよね。
小説は内容が自由なんですから、レベルも自由でしょう。
ですから、「レベルが低い」という批判そのものがおかしい。
レベルが低いとか自分と合わないと思えば無視して、自分に合うものを探して享受すれば良いのです。
また、「小説はかくあるべきではない」と思うのであれば、ケータイ小説を持て囃す世の中で苦労しながら、「こう」と思う小説を書いて、それを読みたいと思う人を探せば良いでしょう。まあプロになる場合、「ケータイ小説を書け」とか言われて葛藤においこまれるとは思いますが…
ケータイ小説に対する批判は、自分とは全く無関係に上手くいっている恋人たちに向かって、「その相手は俺の基準から言うとなってないから、お前らの関係は駄目」といっているようなものです。