飢饉の原因
全体として現代の飢饉は、食物不足に見舞われていない国々においてしばしば発生する。これまでに起こった最大の飢饉(影響を受けた人口からいって)はアイルランドのジャガイモ飢饉であり、これは1845年、イギリスがより高い値段で食物を買えるという理由でアイルランドから輸出されていた時に起こった。同じように、1973年のエチオピアでの飢饉はウォロ地方に集中していた。高値で食糧が売れる首都のアジス・アベバへウォロから輸出が行われていたのにも関わらず。独裁体制下のエチオピアとスーダンの市民は1970年代末から1980年代初頭にかけて大飢饉に同時に見舞われたが、民主主義体制であるボツワナとジンバブエは、国内の食糧生産がより低かったにも関わらず、飢饉を免れている。これは、最も酷く影響を受ける人々に対して短期間の仕事を創出するという単純な処置によって可能になった。局地的な食物供給の混乱が生じている期間にこのようにして食物を買うための最低限の収入を保証しつつ、反対派政党からの批判や報道機関の猛烈な取材の下でこの対策は講じられた。
牧羊と農耕によって、数の面でも密度の面でも、大量の人口を支えられるようになったために、不作や、旱魃のような状況の変化は、環境収容能力(環境を損なわずに収容できる人間の活動。その土地にどれだけの人間を受け入れられるか、ということ)が急激に低下した土地に多くの人々が住むようになる状況を作り出す傾向がある。飢饉は主に、生活手段としての農業、つまりその大半が生きるために十分な栄養を作り出すことを目的とした農業に関係している。経済的に強い地域に全く農業が存在しなくても、飢饉は引き起こされない。アリゾナやその他の富裕な地方では大部分の食物を輸入している。
人類が記録を残すようになってから今に至るまで、自然によるものであれ、人為によるものであれ、災害は飢饉の条件と関係がある。旧約聖書には「7年の不作」が「7年の豊作」での収穫を費えさせ、蝗害が全ての食糧を食い尽くすことがあった様子が描かれている。特に戦争は飢饉と関係があり、土地を焼き払ったり、耕作する人々を攻撃したりした時代と場所とで特に関係した。
飢饉は人口統計に非常に強いインパクトを与える。例えば、ある文化圏ではひどい飢饉が起こると女児の数が減ることにつながる現象が見られる。人口統計学者と歴史学者はこの傾向の原因を議論している。両親は女児を間引きしたり売り払ったりして、より価値が高いとみなされる男児を意図的に選択するのだと信ずる者もいる。もう一方では、生物学的な作用が働いていると推測するものもいる。
経済学者・アマルティア=センが述べたように、飢饉は通常、食糧不足というよりは食物分配と貧困の問題である。中国の大躍進政策の失敗や1990年代の北朝鮮の飢餓や2000年代初頭のジンバブエなどの多くのケースなどのように、政策上の意図せぬ結果として飢饉は引き起こされうる。1930年代のウクライナ飢饉におけるように、飢饉は抑圧的な政府が政敵を抹殺する手段として使われることもある。ソマリアなどのその他のケースでは、飢饉は食物分配の仕組みの機能停止のような国家的無秩序の結果である。
現在、戦争や意図的な政治的干渉によって多くの飢饉が発生している。
今日、窒素肥料や新しい除草剤、砂漠農業、そしてその他の農業上の技術が飢饉への武器として使用されている。これらによって、穀物収穫量は2倍、3倍、あるいはそれ以上に増加しうる。先進国は時に飢饉の問題を抱える発展途上国にこれらの技術を与えるが、そうすることに対しては環境保護論者によって観念的な論議がおこされることもしばしばである。この論議の原因が、持続可能性の欠落した無機肥料と除草剤の組み合わせにあるとされることもしばしばある。いずれにせよ、戦争に起因する飢饉にはこれらの技術進歩は影響をもたないだろう。同じように、収穫量の増加は食糧分配上のある種の問題、特に政治的干渉によってひきおこされた問題については役に立たないだろう。