財投債の危うさ


粉飾会計を手助けして責任をとらされる会計監査法人が問題になったことがありましたが、財政を使いたくて仕方がない政治家に対して、いかにジャーゴンと屁理屈を用いて反対意見を封じ込めるかというコンサルティングをして報酬をもらう、政治家からもらうのですから原資は税金ですが、このようなビジネスからは財政の持続可能性を真面目に考えた、経済学的に妥当な提案が出てくるとは思えません。
政治家もコンサルタントも、税金という他人のカネをいかにして私利に転化するかという点で利害が一致しているのですから。
本職の経済学者も似たようなものですが。
財政を使いたがるのは、天下りその他で税金を懐に入れられる官僚、選挙区に財政資金を引っ張って献金と票を得たがる政治家、政府から仕事を受注して楽にカネを稼ぎたい業界ですから、これはつまり社会の上層ぜんぶ、ということであります。
財政の浪費に賛成しておけば、これら有力者層と関係の深いメディアで活動したり、講演会を発注してもらえたり、政府の仕事に呼んでもらえたりと良い事づくめですから、経済学者もウソをつくことを止められませんね。
ツケは一般国民に回せば済んでしまいますし。
日本の財政問題が危機的な状況を迎えるのはまだまだ先のことですから、そのころには今財政の浪費を煽っている人たちは隠居しているか、死んでいるかです。
それまでにできる限り税金にたかって、つまり他人のカネを合法的に盗んで豪勢にやりたい、という話なのであります。

投債

財政投融資を活用するというアイデアは、単なる財政資金を浪費する案よりも良い点がありますが、危うい面もあります。
官僚出身のコンサル兼教員の人は、いつものことですが財投債を「未使用の特効薬」であるかのようにプレゼンしています。ビジネス上、ああいう軽薄かつ奇抜なプレゼンが有効なのだろうと思います。
在野リフレ派とそれにつらなる積極財政主義の皆さんは、例によって大喜びで飛びついていますね。この間の無限財政資金の「アイデア」にとびついていたのと同じです。
経済学うんぬんよりも常識力が求められる局面だと思うのですが、財投債というのはミスリードな言い方であって、正確には「財投向け資金」と呼ばれるべきだと思います。
ふつうの国債と財投債のちがいは、償還の仕方にあるだけであって、両者とも何ら区別なく売り出されています。集めた資金を償還の方法によって切り分けているに過ぎません。
プライマリーバランスに影響を与えないのは、税金で償還するのではなく、融資先から資金を返還してもらうからであります。
ここには良い点と悪い点の両方があります。
良い点としては、ふつうの国債の場合、財政資金を現在使ってしまい、将来税金を集めて償還しなければならないところを、財投債の場合には融資先から返還してもらった資金で償還するということ。アナロジーでいうと、消費でなく投資するということ。リニア、中小企業の設備投資支援、奨学金が財投の主な融資先として挙げられていて、疑問を感じないわけではありませんが、闇雲に使ってしまって将来の税金による償還をあてにする財政出動よりはマシなところがあります。
悪い点としては、ふつうの国債の場合、税金で償還するのですから不良債権は発生しません(国内で財政がまかなえる限り)。しかし財投債の場合には、中小企業や学生に融資するのですから、必ず返還してもらえるとは限りません。返還時期に景気後退していたら返されない危険性が大きくなりますし、景気が良くても何パーセントかは返されずに不良債権化するでしょう。
不良債権化して穴があいた部分は税金で穴埋めしなければならないので、財投債といえども、積極財政主義者が軽薄に煽るほどに融資してしまうと結局はふつうの国債の償還と変わらず、税金で負担する部分が増えるだけです。
財政投融資の危うさは、市場メカニズムが介在しないというところにあります。
財投債の資金を融資する政府系の金融機関は、融資が失敗しても責任をとらされることがありませんから、融資の審査をきちんとやらない動機があります。また、景気対策の看板のために金額ありきの融資目標が挙げられてしまったりしたら、もたもたしていたらむしろ評価が下がってしまいますから、余計にゆるい融資が行われる危険性があります。
奨学金には正の外部性がありますから、財政投融資で行う経済学的正当性がありますが、リニアと中小企業の件は金融政策でできるところに割り込んでいる形ですから、基本的に屋上屋です。
このように不自然なことをしていると、「要らなかった」と言われないために拙速な融資を行う動機も存在すると思います。
プライマリーバランスにおいて財投債を考えなくていいというのは今とりあえずの話であって、節度ある財政投融資をしなければ、ゆくゆく問題になります。
問題は、節度ある融資をさせるメカニズムが存在しないことであります。
こういうものを称揚するのはぜんぜん経済学的でないという意味でもあります。