その地方はその地方の人だけのものではない。

原発賛成の言論でもまともに論じる気があれば良いのですけれども、始めから結論ありきで論拠不明確な言説を撒き散らす傾向が見られるのは嫌な話なんですけれども、やめないでしょうねぇ。
原発警戒区域内の楢葉町長 都会の「脱原発」運動に異議あり|NEWSポストセブン
この記事の町長さんは「都会にいて原発の批判をするのはおかしい。」と言っていて、よくあるパターンですが「苦しい立場の田舎の人が安楽に暮らす都会人の傲慢を批判する。」という方法をとっています。こういう記事を載せる雑誌もそういった雰囲気を演出して脱原発派を情緒的に黙らせようという戦術なのだと思います。
しかし私が違和感を覚えるのは、この町長さんがその地域を自分たちの領土のように語っているという点なのです。
自分たちの土地なのだからどのように利用しても自由ではないか、自由に使わせろ、という論理が読み取れるのですが、変ですね。
国土を汚したくない、という愛郷心は所有権とは無関係に存在するものです。
私は原発所在地に住んでいるわけではありませんが、日本の国土や日本国民の健康における健全性に価値を見出す立場ですから原発に反対なのです。
そんな差し出がましいマネをしていいか?という疑問もあろうかと思いますが、もし我々が自分の所有している物、直接関係しているものだけに価値を見出すのであれば、大規模で高度で人間を保護するような社会は成り立ちません。
自分の所有物や関係しているものだけを大事にする発想は部族社会のそれであって、アフリカの幾つかの国ではそういった部族感情が合理的な社会の発展を妨げたりしています。(例えば、自分の部族関係者だけに有利な税制を作る政府だったらマトモな社会になりますか?)
もし日本人が、日本であっても遠い土地の環境などどうでもよい、そこに住む人々の健康などどうでも良い、更には未来の日本人の状況にも関心がない、という態度でいるなら、大規模な社会において相互に思いやりのある価値観を構築したり、そのような政策を支持したりすることができるでしょうか?私は出来ないと思います。
私が改めて欲しいと思うのは、「俺たちはこの土地に住んでいるのだから、この地域における利害は理解している。」という考え方です。上記記事の町長さんが、その土地に将来住む人々、特にウランが枯渇して原発が無くなり、放射性廃棄物原発自体も放射性廃棄物。)だけが残された状況で生きなくてはならない人々の利益まで考えているとは思えません。
ご自分の視野には限界があることをお忘れなきよう。
そのように思います。