批判者が過剰適応でないのは当たり前。

精神科医が「反原発派は世の中に馴染めない人が多い。」という意見を書いていてちょっとした反発を受けていたのですけれども、特に悪意のある書き方というわけでもなく妥当な見解かな、と思いました。
世の中に満足して適応している人が物事を批判しないのは当たり前で、現状から利益を得ているなら否定する理由がありません。
原発推進派は世の中に適応している人々の代表格というかまさに主流というか、各界の有力者が原発から汲めども尽きぬ富を得ていて、カネと権力を掌握しています。
現在の世間に適応している人は少なからず各界の有力者とどこかで関係をもっているはずで、原発からまわりまわって間接的に利益を受けているのですから反原発派にはなりにくいでしょう。
問題は原発推進派に見られるように、国土が汚染されようが子供の健康が害されようが核のゴミの処理法が見つからなかろうが、自分たちが得をするなら盲進するのを決してやめないといったエゴ丸出し、抑制が一切ない態度であるのに「立派に適応してさえいれば良い。」と言えるかどうかです。
戦前の状況になぞらえるなら、日中戦争・太平洋戦争といった無意味・無駄・愚劣な行いを推進していたのは各界の有力者でしたから原発と全く同じ構図です。
彼らは戦前日本のエリート・主流派・適応者であったことは明白ですね。その当時は立派な人達、力ある人達、財産のある名士として扱われていた層ばかりで、彼らは自分たちの行いに疑問を持たず、世の中の価値観から外れるわけでもなく「問題なく振舞っていた」人々です。
周囲も彼らを崇め奉り、彼らに媚び諂い、あわよくば末席に加えてもらいたいと思っていました。
戦争を遂行していた人々が否定・非難されるようになったのは戦争に負けたからで、国民が大量死して国土が荒廃しきってからようやく「その時代に適応的な価値観」から離れた批判が可能になったわけです。
今の私たちから見ると当時の指導層は異常なことをやっていたと感じられますが、その時の世の中に適応していた人々はそれに気づきませんでした。それが適応というものです。もし「自分たちの考え方・感じ方はおかしいのではないか?」という視点を持つ人がいたらその人は当時の価値観から外れた見方をしているのですから不適応の芽がそこにあります。
「不適応」という言葉はネガティブな意味で使用されますが、今の視点から見て当時の「不適応な考え方」を否定できるかどうかが考えるべきポイントです。
とにかく適応することを良しとするなら、昭和初期の日本について語る時に戦争に否定的な評論はできなくなります。戦争に否定的な考え方は当時の日本では不適応者のものだからです。
反対意見を持つものを「社会不適応なダメ人間。」というレッテルをはって軽蔑し、多数の人々に蔑視させることで影響力を削ぐという手法はよく使われるものですけれども、そのやり方はどこかで矛盾してしまうものです。
反対者を蔑むやり方は論理的な整合性を保ったままだと、自由に批判する事は不可能になります。
批判されるべき物事から抜け出た価値観、つまりその物事に「適応しない」立場から批判が可能になるのですから、「世の主流に批判的な奴は落ちこぼれ。」といった、論理でなく人間の優越感につけこんで有利な流れをつくろうとする手法は結局は己の手足を縛ってしまうことになります。
少なくとも論理的思考を保持するのであれば、ですが。*1

*1:とはいっても不適応だから批判者として正しいとまで言うのは言い過ぎですけれども。