原発事故1カ月…水失った原子炉、崩れた「神話」

産経新聞 2011.4.9 08:11 (1/3ページ)


「なんとしても燃料棒冷やして」


 東日本大震災から11日で1カ月となる現在も収束のめどすらたたない東京電力福島第1原子力発電所。すべては原発の安全の生命線である「水」が失われたことから始まった。


 「2号機の原子炉に注水ができなくなっています」


 3月11日午後2時46分の地震発生から6時間後。政府の原子力災害対策本部で、現地からの報告を聞いた原子力安全委員長の班目(まだらめ)春樹は、背筋が凍り付く思いがした。水喪失が何を意味するのか。安全性にお墨付きを与えてきた班目は、知りすぎていた。


 「なんとしても燃料棒を冷やしてください。炉内の圧力を下げるための排気(ベント)も必要です」


 班目は本部長の首相、菅直人に繰り返し具申する。


 2号機の注水停止は、やがて混乱と錯綜(さくそう)による誤報と判明する。だが1号機では班目の頭をよぎったシナリオが進行しつつあった。


 時計の針を少し戻す。地震からほぼ1時間後。東京都千代田区の東電本店にいた原子力担当副社長の武藤栄は、「様子を見てくる」と、ヘリで飛び立った。地震発生時に運転中だった1〜3号機は、核分裂を止める制御棒が挿入され、自動停止し、冷却装置も作動していた。


だが想定を超える約14メートルの津波で事態は一変。13台あった非常用発電機が6号機の1台を除きすべて冠水。午後4時36分、1〜3号機は「全電源喪失」という緊急事態に陥った。


 「早く電源車をかき集めろ」。武藤は現地対策本部で声を張り上げた。


 原子炉には余熱で発生した蒸気を利用して原子炉に注水できる非常用冷却システムがある。だが、バッテリーが切れると、原子炉の弁が閉じてしまい注水ができなくなる。タイムリミットは、7〜8時間。


 各地から53台が福島に向かい、午後9時すぎに東北電力から2台が到着。12日午前0時すぎには、さらに2台も駆け付けた。


 だが、弁を開けるには、低電圧の電源が必要だったが、4台はいずれも高電圧車だった。電圧を変換しようとしたが、がれきに阻まれ、ケーブルの長さが足りず届かない。原子炉のつなぎ込み口も、津波で水没していた。報告を受けた経済産業省原子力安全・保安院の幹部は、力なく笑うしかなかった。


 「なぜ東電はベントをやらないんだ」


 対策本部で経済産業相海江田万里はいらだっていた。12日午前3時に会見までして指示を出したが、東電からは何の連絡もない。


 同じころ武藤は愕然(がくぜん)として部下の報告を聞いていた。「中央制御室の停電で準備が思うように進みません」。暗闇の中、手動による作業は難航した。


 午前5時、保安院審議官の中村幸一郎は会見で、「1号機でベントをやる。国内では例がない」と決意を示した。原子炉内の放射性物質放射能)と一緒に蒸気を放出するベントは東電には重い決断だった。


午前7時には菅が、後にベント作業の妨げになったと批判された視察に到着する。東電には首相に放射能を浴びせないよう配慮するような余裕はなかった。電源喪失で東電は弁を開けたくても開けられなかったのだ。ベント開始は、午後2時30分。海江田の指示から10時間が経過していた。


 綱渡りの注水を続けていた1号機では炉内の水位が低下を始め、計器は午後0時半に4メートルある燃料棒のうち1・7メートルが水面から露出していることを示していたた。


 「計器が故障している可能性があります」。東電は、より多くの量を確保できる海水の注入を見送り、保安院も報告をうのみにする。午後3時36分、1号機で水素爆発が起き、建屋上部が吹き飛んだ。


 原子炉内では、露出した燃料棒が高温になって溶け、放射性物質が漏れ出す「炉心溶融」が起きていた。班目が恐れた国内最悪の原発事故が現実となった。2、3号機もやがて同じ道をたどり始める。爆発は、「7つの場面」で連鎖した幾重の危機の一つでしかなかった。(敬称略)

だが、弁を開けるには、低電圧の電源が必要だったが、4台はいずれも高電圧車だった。電圧を変換しようとしたが、がれきに阻まれ、ケーブルの長さが足りず届かない。原子炉のつなぎ込み口も、津波で水没していた。報告を受けた経済産業省原子力安全・保安院の幹部は、力なく笑うしかなかった。


緊急時の想定の不在。
緊急時の処理手順の取り決めも不在。
想定外ではなく想定そのものが無かったということ…