創作物の有害性は存在し得ない。

有害創作物の扱いをどうするか、みたいな面倒な議論がかまびすしい。
創作物の有害性とかいったものが実在するという考え方を私はとらないので規制には反対なのだが、そのための戦いをする「情」の裏づけがないので私には議論に参加する気が起きない。
ただ、有害創作物の「有害性」とは、受け手にどう影響するから悪いと思われているのか今ひとつ明確でない気がする。
有害表現にふれた人間が、加害者として変性してしまうのか、あるいは精神的外傷を負う被害者にならされてしまうのか、どちらの意味で規制が必要だとされているのだろうか。
先に書いたように、私はその手の有害性が実在すると思わない。
釈迦が言ったように、そこには関係があるに過ぎない。
表現は送り手と受け手の双方があって成立する。
ということは、表現の成否ないし質は、送り手と受け手の資質に左右されるので、一定の「有害な影響力」が作品中に実体として存在しうるとは思わない。
もっとぶっちゃけてしまうと、いくら「酷い」創作物を禁止したところで、この世に現にある「酷い」行いはなくならない。
反吐が出るような暴力、変態性、それらの融合したものは創作物とは全く関係なく、我々の世界に存在するという事実から目を逸らしてはいけない。
言い方を変えれば、酷い言動を禁止した所で酷い人間はいなくならないということ。
発言はともかくとして、酷い行為を止めるためには具体的な措置が必要になるのであって、予防することはできない。
表現物が登場する以前から人間の歴史は暴力変態異常卑劣愚劣虚無否認の大行進である。それこそ本をちゃんと読むべきだろう。