分からないことを批判したがる橘玲の不思議

分かっていないことを分かっていると言いたがったり、分かっていないことを批判したがったりする人が世の中には多いんですが、不思議なことですね。
分からないことは分からないと留保しておくか、触れないでおくかすれば良いと思うのですが。
マクロ経済学のどこがヤバいのか – ページ 3 – 橘玲 公式BLOG
まず前提として、経済学を根本的に批判するには恐ろしいほどの勉強が必要になります。一冊二冊教科書やら一般書やらを読んでも批判は不可能。
それができる人は経済学者の中でも相当に自由かつ優秀な人であって、例外的な存在です。
現実に出ているデータと理論が合わないのに従来の主張を繰り返しているのが普通であって、そのへんを説明できてしまうような人は世間の経済学者や経済専門家から嫉妬されて根拠なく腐されたりするくらい。
門外漢が経済学を少しでも真面目に読もうとすると、リーディングリストの量にうんざりしてなかなか進みません。
限界費用の逓増に関する橘氏の言説。

このときによく例に出されるのがレストランのキッチンだ。
自分ひとりで料理をつくっていたら、お客さんがたくさん来てもぜんぜん対応できない。そんなときは、もうひとりコックを雇って手分けして料理をつくればいい。このとき、コックに払う給料(コスト)に対して客に提供できる料理(生産)の増加分は大きいから、限界費用(コックを1人から2人に1単位増やしたときの費用)は小さい。
しかしそうやって、どんどんコックを増やしていけばいいというわけではない。キッチンのスペースには限りがあるし(資本設備が一定)、手順を変えるような時間的余裕もないのだから(短期)、コックが増えるごとに効率は悪くなって、最後には全員が狭いキッチンで身動きできなくなってしまうだろう。すなわち、限界費用が逓増するのだ――。
このたとえ話(ミクロ経済学のちゃんとした教科書に載っている)に、「なるほど」と納得できるひとはどのくらいいるだろうか。

混雑現象で説明する手法だけ取り上げています。
限界費用逓増の説明としては、人を増やしても増やしたほどには生産が増えないという説明もあります。
経済学の教科書は、同じレベルでも説明の仕方に違いがあるので、納得できるまでいろいろ読む方が良いと思います。
また、経済学の想定は現実にそのまま当てはめるものではありません。
たとえば完全競争が現実にはめったに存在しないなんて誰でも分かってます。
現実の複雑さや特殊さをそのまま持ち込んだら、ややこしすぎて何の洞察もできないでしょ。それくらい分かりませんか。

でも、限界費用の逓増はこんなふうにはなっていない。だいたい、料理人を詰め込みすぎて大混乱しているレストランなんて、誰か見たことがあるだろうか。そもそもキッチンの大きさで最適なコックの数は決まっていて、プロならそれ以下にも、それ以上にもしようとは思わないだろう。ようするに、「資本設備が一定で短期の場合」というのはものすごく特殊なケースで、限界効用逓減のように一般化することができないのだ。

いや、そんなことないと思います。
すき家のワンオペが問題になりましたが、すき家程度のスペースにお客さんがいっぱい来てしまう店の場合、最適な店員の数は何人なんでしょう?
最低限回せるなら二人?
多少なりとも味のよい料理を出すなら三人?
お客さんへの愛想をふりまいて満足度を上げるには四人?
レストランの効用は、単に食料を食べられたら良いというもんじゃないです。
生産の中にサービスを入れると、けっこう難しい問題です。

近代経済学が数学的に完成された1950年代には、早くも企業の管理職へのアンケートによって、実際に限界費用が逓増しているかどうかが調査された。それによると、全1082製品のうち6割ちかくの638製品で平均費用は生産量に応じて低下し(生産設備の上限まで限界費用は逓減しつづける)、その一方で理論どおり限界費用が逓増するとこたえたのは全体の6%以下の製品しかなかった。このアンケート結果は、「つくればつくるほどコストは下がる」という実感にも、「コックが多すぎるレストランなんか見たことがない」という経験にも一致する。まともな科学なら、6割もの反証事例がある仮定は真っ先に棄却されるだろう。

ん?限界費用の話ではないのですか。

しかし賢いはずの経済学者たちは、非現実的な「合理的経済人」とともに、「限界費用の逓増」という奇妙な仮説にしがみついた。「物理学などとちがって、市場は完全にはモデル化できない。経済学がやっているのは市場の近似的なモデルを数学的に組み立てることで、人間がだいたいにおいて合理的に行動するように、企業人がなんといおうと、限界費用もだいたいにおいて逓増しているのだ」と強弁して――。驚くべきことに、経済学では現実を理論に合わせなければならないのだ。

そんなことを強弁した経済学者って具体的に誰なんでしょう。
「完全なモデル化」って意味不明です。現実そのままではモデルと言いません。
ただ最後、現実を理論に合わせようとしている、という批判は私も賛成。経済学に限らず、現実を曲げて理論の正当性を主張する人はけっこういます。

限界費用が逓増するということは、収穫(利益)が逓減するということだ。すなわち、つくればつくるほど儲けは減っていく。大量生産によってコストを下げる規模の経済は、経済学では例外的な事例なのだ。――これが、企業経営者などビジネスの現場を知るひとたちから「経済学は使いものにならない」とバカにされる理由だ。

こんなことを言う経済学者って本当に誰なんでしょう。私は読んだことがありません。

市場参加者が合理的な期待を形成しないならマクロ経済学の理論的根拠は失われ、限界費用が逓増しないなら、マクロ経済学を基礎づけるはずのミクロ経済学全体が崩壊してしまう。経済学は、「科学」としてけっこうヤバいことになっているのだ。

橘氏は経済学の多様性を知らないんでしょうね。
大学で学ぶのはマクロ・ミクロ・計量だそうなんですが、これらの初級教科書を読むだけでもうウンザリ。独学できる人はほとんど居ないと思います。
これらだけでも中級・上級、とさらに上がありますし、その他の経済学や経済学の周辺で勉強する内容はまだまだゴロゴロありますから。
ミクロ経済学の定理の証明にトポロジーとか使うんですよ。そんなの分かるわけない。
経済学が科学と言えるかどうかは確かに疑問なんですが、橘氏のように気軽に全否定する勇気が私にはありません。

金利による説明は分かりにくい

金融政策についての教科書や日銀の説明がどうも分かりにくいな、と常々思ってきました。私の疑問点は以下のとおり。

  1. 年限の長い国債を日銀が買い入れてイールドカーブを下げる、という説明より、買い入れる国債の年限を伸ばすと緩和状態の持続が示される、という説明の方が分かりやすいんじゃないの。
  2. 金利に執着した説明をしていると、経済活動が活発化してインフレ率が上がり、金利が上がり始めたときに、それは金融政策が十分なのか、不十分なのか、判定できるの?
  3. 金利が下がって投資が増えるという説明より、利子のつかない貨幣が余りすぎて要らないから金融資産に換える、そんで投資も増える、という説明の方が分かりやすいと思うんだけど。
  4. 金融政策と財政政策を峻別している人が多いけど、日銀が国債を買い入れている時点ですでに、それは財政政策でもあるんじゃないの?
  5. 超過準備への付利はどう考えても非合理だと思うんだけど、批判する人が少ないのはどうしてかしら?

で、これらの疑問点におおむね答えてくれる教科書に出会うことができました。それが何かはネタバレになるので書きたくないんですけど、法律で有名な出版社から出ている教科書だとは書いておきましょう。
上記の1、3、4は、このような理解法でも良いようです。こちらの理解の方がシンプルで分かりやすいですよね。
4に関して、日銀が国債を買い入れると利子が日銀に入りますけど、それは国庫に戻してしまうわけなんで、日銀が買いオペするだけで政府の財源になるということ。
5に関しては、その教科書のその部分を書いた人がどうも旧日銀シンパのようで、よく分からない説明でした。
超過準備に付利して短期金利を0.1%位に保つのは、ゼロ金利政策の建前を守るため、みたいなことが書いてありました。つまり、実質ゼロになってしまうと、金融機関が短期金融市場で資金を運用しないだろ、という。
しなくていいじゃないかと思うんですけどね、貨幣が潤沢にあるから要らないわけだし。建前としても矛盾してますね。
ただ、「こちらの方が本質かな」と思う記述がほかの部分にあって、これはほかの筆者が書いたのだろうと思うのですが、ゼロ金利政策というのは短資会社の仲介手数料を引くとほぼゼロになる金利、という意味なんですね。
つまり、0.1%でも金利がついていないと、短資会社の手数料が減ってしまうということですわな。
で、短資会社には日銀の天下りが多数、っと。
浜田宏一イェール大学教授憂国のインタビュー第3回 聞き手:高橋洋一() | 現代ビジネス | 講談社(4/7)
超過準備への付利は、かの有名な白川正明氏が総裁になった年に、リーマンショックの直後に導入された政策なんですが、白川氏を蛇蝎のごとく嫌うリフレ派もまた超過準備への付利撤廃に消極的とはこれ如何に。
白川氏の政策であっても、「内容が良ければ」賛成するということなんでしょうか。

消費増税と法人減税は別に矛盾しないだろ

連日の金子議員批判。経済学に詳しければ、こんなこと言わない。


消費増税に反対なのは私も同じなんですが、法人減税が矛盾するという話は変ですわな。
金子議員の言い分は、企業と個人を対立させて考える、これまた共産党と同じ発想。どうしてそうなりますかね。
個人はどこで働いて給料を得ているんでしたっけ。
会社が十分な給料を払わないのは個人の交渉力が低いからなんで、国会議員がやるべきことはいくらでもあるでしょう
サービス残業の規制・監督を強化するとか、労働力の移動を円滑にするとか、外国企業の参入をしやすくするとか。
法人税減税すると外国企業が参入しやすくなりますから、労働者は働く場の選択肢がふえて交渉力が増しますよ。
ま、労働組合は外国企業を嫌がると思いますが。
いま消費税を推進したがっている人たちにはグランドデザインは確かに無いんだろうと思います。なんらかの利得のために増税したがっているだけで。
ただ、法人減税を単に「悪影響の相殺のため」と見てしまうのは浅いと思います。
消費増税が避けられないときに、法人減税を組み合わせると、官僚や政治家が意図してもいない良い効果を逆に創出できると考えている人もいるかもしれません。逆境を順境に転化する、みたいな。
理屈上はありうるんですよね、実際にそうなるかは別として。
先日のエントリで引用した記事にもあったんですが、リフレ派は「消費と総需要を混同」してはいなくても、消費が伸びないと総需要も伸びないという経済観を持っていて、それはまぁ現実によって否定されつつあるんですが、そういう経済観は消費偏重なんだろうと思います。
消費偏重の見方をしていると、消費増税の悪影響は法人減税では打ち消せない、みたいな二項対立しか思い浮かばないということになるんでしょう。

2015年12月23日のツイート